急がば坐れ!~全生庵便り

坐禅を組むと見えてくるもの ~「坐禅」を知る 第1回

2014.11.10

社会

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写真/片桐 圭

政財界の要人、一流アスリートらには「禅」に惹かれる人たちが多い。いったいなぜ? 禅にまつわるキーワードをひも解きながら、彼らを成功に導いた禅を知り、よりよい人生をおくるための心のあり方を探る。

超概略! 禅における坐禅とは?

臨済宗では最低3年間の住み込み修行が必要で、坐禅はその修行の根幹ともいえるもっとも重要な行い。

修行を行う禅僧の1日は、朝夜2回の坐禅をベストな状態で行えるようにスケジュールされている。朝から掃除、経読、入浴などをこなし、食事は粥や野菜が中心の精進料理を朝昼2回。エネルギーの有り余っている22~23歳の若い禅僧が坐禅に集中できるよう、食事や睡眠時間を制限してエネルギーを削っていく。こうして体のコンディションや精神状態を調整し、生活の一つひとつに心配りをして心を整えていくのだ。

坐禅は朝2時間、夜3時間のなかで、30~40分坐って休むということを繰り返す。姿勢を正し、呼吸を整え、足の痛みに耐えながら”無心”を目指して坐る。特に師匠が教えてくれることはなく、自分の心とひたすら向き合っていく。

安倍晋三、佐藤尊徳
創刊号より

一国の総理大臣を甦らせた坐禅

昔から、多くの政治家や経済人が坐禅をするために全正庵を訪れてきた。現総理大臣である安倍晋三氏もその一人。2006年に第一次内閣を組閣するも、閣僚の不祥事や安倍総理自身の体調不良により1年で辞職。それから2012年に第2次安倍内閣を発足するまでの5年間、安倍首相は月に一度この全正庵へ通い、坐禅を組んできた。

再組閣後は、アベノミクスによる景気回復、増税実施など、日本経済の立て直しに向け、総理大臣としての能力を発揮し、見事な復活を遂げた。坐禅は氏に何をもたらしたのだろうか。

「辞職したばかりで自信をなくてしていた安倍総理は、2007年に全正庵へ訪れました。それから月に一度、私は季節ごとの禅語について話をして、坐禅を見届けるだけ。政治の話をすることもありません。そうした5年間でご本人がどう変わったのか具体的にはわかりません。けれど、心の様子や体調は坐った姿に必ず表れるもの。回を重ねるごとに呼吸は整い、安倍首相の姿勢は美しくなっていったように思います。坐禅がいまの活躍の一つのきっかけになったのかもしれません」(平井住職)

一国を動かす総理大臣ともなれば、その重圧は計り知れない。坐禅で身に付いた呼吸や姿勢は、安倍首相にプレッシャーに対する”心の整え方”を気づかせたのだろう。

坐禅が注目される時代?

一般公開の「坐禅会」を行っている禅寺は意外と少ない。そんななか、全正庵は先代から継続して坐禅会を続けている。毎週日曜日に予約制で開催しているが、ここ数年のうちに若い人の参禅が増えたという。

「10年前に私が全正庵の住職になった頃、坐禅会に訪れる人は20人程度でした。それが今では80人を超えています。これにはさまざまな理由があると思いますが、特にインターネットの普及が大きいでしょう。ひと昔前なら坐禅に興味があっても情報が少なく、どこの寺へ行けばいいかもわからなかったのですから」(平井住職)

おそらくネットを見て坐禅会に訪れたであろう若い人は多いが、大抵一度きり。けれど住職はそれでいいと言う。テレビやインターネット、スマートフォンが普及し、寝る直前まで”無心”になることがない現代に、一度でもいいから静かな気持ちで坐ってほしいからだ。たった一度の体験でも、それを知っているのと知らないのでは、天と地ほどに違う。

また、女性の参禅も増えたという。日曜日の夕方6~8時に自由な時間が持てるのは、シングルや子育てがひと段落ついた方か。そういった時代の変化もあるようだ。ブームといえるほどの多くの人が坐禅に興味を持っているわけではない。ただ、今の世の中に心の落ち着きを求めて訪れる人が多いことは事実。日々の生活に少しでもストレスを感じていたら、一度坐禅会を訪れてみるのもいいだろう。

真夏の坐禅会
2014年7月に政経電論が主催した「真夏の坐禅会」

全生庵 住職・平井正修 インタビュー

臨済宗国泰寺派全生庵 住職

平井正修 ひらい しゅうしょう

1967年東京生まれ。臨済宗国泰寺派全生庵七世住職。1990年、学習院大学法学部政治学科を卒業後、2001年まで静岡県三島市龍澤寺専門道場にて修行。2002年より現職。2016年4月より日本大学危機管理学部客員教授として坐禅の指導などを行なう。著書に、『とらわれない練習』(宝島社)、『男の禅語:「生き方の軸」はどこにあるのか』(知的生きかた文庫)など。

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「ただ自分の心に問うていく道」

私は23歳で静岡県三島市の龍澤寺に入山し、約10年間、修行を積みました。修行の根幹である坐禅は、体が慣れるまでに最低3年はかかるもの。足の痛みがつらく、気が狂いそうになったこともあります。そして次第に、その痛みが怖くなってきます。

痛いからとお師匠さんに「痛いです!」と言うと、「そうか、まだ足があったか」と返される。なんだかよくわからない禅問答に聞こえるかもしれませんが(笑)、普段人は歩いているときに、右足を出して、次は左足を出して……なんてことは考えたりはしないでしょう。”足が痛い”と思う、つまり足を認識しているうちは偽物だ、ということを言っているのです。

しかし痛みに慣れたといっても、いまだに坐禅をすればやはり足は痛みます(笑)。ただ、痛みを恐れる気持ちがだんだんと薄れ、”痛いなら痛くてもいい”と思えるようになってくる。

人間はマイナスの感情に一度とらわれると、なかなか抜け出せません。もし「誰かを嫌いだ」と思ったら、その人のやることなすことすべてが嫌になってしまうものです。考えるに、坐禅はこうした”精神的なとらわれ”を捨てるための練習なのだと思います。

また、坐禅や修行で気づけることは人によってまったく違います。3年修業しても、「痛い」で終わる人もいれば、1日で”捨てる”ことの大切さに気づける人もいるかもしれない。つまり、坐禅から何を気づかされるのかではなく、自分が何に気づけるか。

そもそも禅や坐禅そのものに「こうだ」と言えることは何もありません。「禅とは心の名なり」というように、常にただ自分の心に問うていく道なのです。

自分に信念や貫く覚悟が欲しければ坐禅をするのも手

人間は迷うと人に相談したり、ストレス解消の行動をとる。素晴らしい答えを持っている人に当たることもあろうが、すべて同じ思考回路で同じ行動をしているわけではないから、参考になることはあっても、最後に決めるのは結局自分自身だ。そこで自信がなかったり、まだ迷いが生じていたならば、物事はなかなかうまくいかない。

この世の中に絶対正しい、というものはそんなにないと思う。自分に信念が欲しい場合、また、貫く覚悟が欲しい場合、坐禅をするのもひとつの手ではないだろうか。私もこの夏に座ってみて、静かな気持ちになれたことは事実だ。この騒然たる世の中で静かに自らを振り返れる場所などなかなかない。機会は強制的に作るもの。よし、もう一度坐ってみよう。次は違うものが見えるかもしれない。

全生庵までのアクセス

住所:台東区谷中5-4-7

最寄り駅:JR・京成電鉄 日暮里駅より徒歩10分/地下鉄千代田線 千駄木駅(団子坂下出口より徒歩5分)

 

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