急がば坐れ!~全生庵便り

禅的思考で頭スッキリ ”大人”になるということ

2016.9.12

社会

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選挙権が18歳に引き下げられ、18歳は大人なのか?子供なのか?と、さまざまなメディアで、議論がかわされていました。みなさんも考えたのではないでしょうか?大人とは?子供とは?と――。しかし、考えてもなかなか自分なりの答えを見つけるのは難しいものですよね。でも、住職なら答えにたどり着くヒントをくれるかもしれません。ちょっと、聞いてみたいと思います。

大人=成熟、子供=未熟は本当か

“大人”とひと口に言っても、その捉え方はさまざまです。そもそも禅の考えには大人、子供という区別がありません。私は3人の子供の父親ですが、私のほうが成熟していて、子供たちのほうが未熟だというような意識はありません。生まれたばかりの赤ちゃんだって、ある意味、完成形です。

確かに、できることは子供たちより私のほうが多いでしょう。でも、子供ってすごいですよ。私の4歳の娘が最近まったく親の言うことを聞かないのですが、思わず感心してしまうぐらいです。母親がさんざん叱っても、ちっともめげない。叱る親のほうがめげるぐらいなのに、子供は心が折れません。ダメと言われても何度でも同じことをくり返します。

あのへこたれない気持ちがあれば、たいがいのことはできてしまいそうですよね。大人は上司に叱られてヤケ酒を飲んだりしますが、子供は酒に頼るでもなく、叱られて1時間もすれば、母親に「ママ、大好き」と言えてしまうんです。その瞬間を生きていて、前後のつながりにこだわらない。あれは私たちも見習うべきところがあるように思います。「幼子の次第次第に知恵付きて仏に遠くなるぞ悲しき」という古歌があるように、生まれた瞬間が一番、仏様に近いのかもしれませんよね。

大人にあらまほしきものは自省&自制

儒教の始祖である孔子は「論語」に「十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず……」と記していますが、仏教では人生のステップを年齢と相関させる考えはありません。気づいた時が出発点なので、それが3歳の人もいれば50歳の人もいるでしょう。死ぬ一瞬前に気づく人もいるかもしれません。

禅の考え方では、悟った人は何を言っても正法になり、悟っていない人が何を言っても誤法になる、ということになっています。例えば、3歳の子供であっても、先生の後に続いて論語を暗唱することはできますが、意味が分からないまま口にしているその言葉は、ただの借り物です。それが年齢を重ねて、「あの時覚えたあの言葉はこういうことだった」と思って初めて自分の言葉になっていく。言葉が実体験を通じて咀嚼されて自分の言葉になっていくことを、もしかしたら”大人になる”と言うのかもしれませんね。

それでも、制度上は年齢で大人と子供が線引きされているので、18歳になって選挙権を持てば、あるいは20歳になれば、もしくは大学を卒業して就職すれば、人は”大人”として扱われるようになります。

大人と呼ばれる立場になった人に、ぜひしてもらいたいと思うのは、自省と自制です。自分を省みて、自分の言動を自分で御していく。自分を見つめる時間をぜひ取ってほしいですね。私たちはどうしても、自分を棚に上げて話しがちです。他を批評することは得意だけど、自分のことはよく分からないままだったりします。だからこそ、自分と向き合う時間は大切です。

ポケモンの前に自制をゲットしてもらいたい

「日本人全体が子供っぽくなってきているのではないか」という言説も昨今よく耳にしますが、それは幼稚というより退化かなと私は思います。

先日、上野公園へ行って、不忍池周辺の混雑ぶりにびっくりしました。スマホゲームの「ポケモンGO!」に興じる人が大勢いて、その誰もがスマホに目を落として歩くので、一種異様な光景になっています。ゲームをするなとは言いませんが、人とぶつかりそうだから今はやらない、という自制は大切です。スマホと自分、どちらが主なのか、自省をして自制してもらいたいなと思います。

坐禅はその点、我に返る時間になりえます。自分って何だろう、自分をどうしていけばいいんだろう。そんなことを突きつめるトレーニングを多くの人ができていないと思うので、一度、スマホの電源を切って、ちょっと座ってみるのはどうでしょうか。きっと、自省や自制につながるはずです。

いろんな経験を積むことがいい大人になる条件だと思う

 

三つ子の魂百までも、という言葉がある。確かに、自分を振り返ってみても、考え方はそんなに子供のころと変わっていない。小さなころに、自分くらいの年齢の人を見て、すごく”大人”だなあ、と感じていた。

しかし、自分がその年齢になってみて、すごく大人になった感覚はない。自分の中身はそんなに変わってないから。大人になるとは、経験を積んで社会との交わりの仕方を覚えていく、ということに他ならない気がする。

法律的に大人と子供の線引きはあって、責任も違うのかもしれないが、人間そんなに変わらない。ただ、経験の有無によってその行動が変わるだろうから、沢山の異質に交わり、できるだけいろんな経験を積むことがいい大人になる条件だと思う。