香港・電影検査条例によるエンタメ規制と中国政府が掲げる「共同富裕」の関係

2021.9.24

社会

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香港・電影検査条例によるエンタメ規制と中国政府が掲げる「共同富裕」の関係

映画『デニス・ホー ビカミング・ザ・ソング』より ©Aquarian Works, LLC

香港国家安全維持法が制定されて1年以上が過ぎたが、香港および中国政府はこの法律を利用した民主派への圧力を緩める気配はない。これまでは、政党や政治団体など直接政治にかかわる勢力を弾圧してきたが、ここにきて映画を中心としたエンターテインメントに対して措置を取るようになってきた。ソフトの力を警戒する中国当局の姿勢が鮮明だ。

国安法に基づく映画検閲強化、過去作品や海外作品も対象

香港政府は香港内で公開されるすべての映画についての検閲を強化し違反者を取り締まるつもりだ。8月24日、香港政府は映画についての法律である「電影検査条例(Film Censorship Ordinance)」の検閲基準をさらに厳しくした改定案を立法会に提出し、9月に審議入りした。現在、立法会は親中派が多数を占めており通過する公算が高い。

これまでの電影検査条例では政治的な規制はそこまで強くなかったが、改定案では、香港国家安全維持法に基づく検閲を行い、国家の安全に危害を加えかねない行為に対して、支持、支援、美化、奨励、扇動する可能性がある行為などは違反とみなされる。過去の作品も対象とし、批准されていない作品の上映はライセンス取消の対象となるほか、その違反者は最高で禁固3年または100万香港ドル(約1400万円)の罰金が科される。

映画界に対する国安法の影響はすでに出ており、2019年の逃亡犯条例改正案のデモに関して香港理工大学で学生の籠城を描いた『理大囲城(Inside the Red Brick Wall)』が2020年3月に上映会が中止になっている。今年7月のカンヌ映画祭で上映されたデモのドキュメンタリー映画『時代革命』(監督:周冠威)や『デニス・ホー ビカミング・ザ・ソング』(監督:スー・ウォリアムズ)に至っては香港での公開はほぼ無理だろう。

「東洋のハリウッド」の検閲と衰退

1国2制度の下、規制の厳しい中国とは異なり自由な映画作りが可能だった香港は「東洋のハリウッド」と称され、世界に通用する映画作りが行われてきた。そういった気風から自主製作映画の製作も盛んで、中国化していく香港の10年後を描いた『十年(Ten Years)』(監督:郭臻/黄飛鵬/歐文傑/周冠威/伍嘉良)は単館上映から始まったが、2016年に香港のアカデミー賞にあたる金像奨で作品賞を受賞するなどし、その後も日本、タイ、台湾版への派生もしてきた。しかし、今後の再上映やDVD販売は禁止される可能性がある。

条例の改正は自己規制が働くことで自由な映画製作をする気風を失わせ、その結果、香港の映画産業の活力を失わせることが危惧されている。香港映画において警察モノは“18番”の題材だが、警察腐敗を描いたものや社会映画でも政治色の強い映画の上映は認められなくなるだろう。政治とは関係ない恋愛映画ばかりになるかもしれない。

また、ビジネス面でも厳しい。香港映画産業は、新型コロナウイルス感染症の拡大で入場者数が減り、映画館運営大手の「UA戲院(UA Cinemas)」が2021年3月8日に突如閉鎖に追い込まれるなど業界全体での収益環境が厳しい。近年は製作本数も減少傾向で、全盛期の1992年は210本、1993年は234本だったが、コロナ前の2019年ですら49本と衰退が顕著だ。要因としては、香港映画の輸出先だったタイなどの映画産業が発展して自国映画が増えたことから輸出が減ったことと、巨大市場、中国で直接映画作りをしようとする香港人が増えたことがある。今回の条例改定はそれに拍車をかけることになるだろう。

香港政府としては一つの産業が衰退してでも、反体制的な作品の芽は徹底的に摘むという姿勢が明らかになったといえる。

雨傘運動から活躍する民主派歌手デニス・ホー、不屈の精神

デニス・ホーは漢字で「何韻詩」と書く。香港だけではなく中華系の人々に広く知られている広東ポップの人気歌手だ。香港生まれの彼女は11歳でカナダに移住し多感な時期をカナダで過ごす。2000年前後に香港へ戻り歌手として成功を収めるが、カナダ時代に培われた「民主」を重んじる考えは2014年の雨傘運動に参加したことを機に前面に出るようになった。いわゆる“民主派の歌手”的なポジションになり、同性愛者であることを明らかにするなど、香港社会への影響力は単なる歌手以上のものがある。

広東ポップの歌手から民主活動家になっていく姿を描いたのが前述の映画『デニス・ホー ビカミング・ザ・ソング』だ。人気絶頂だった彼女が中国のブラックリストに載るなど芸能活動に支障をきたし始め、自らのキャリアを再構築しようと模索する。そんななか、2019年に逃亡犯条例改正案のデモが発生、彼女は街頭に向かいデモ隊を守ろうとするほか、国連などで香港の惨状を訴える姿も描いている。

国安法の制定と新型コロナウイルスの影響で彼女の芸能活動はさらに追い込まれたが、香港の市中感染が数カ月間でほぼ発生していないこともあり香港藝術中心(Hong Kong Arts Centre)でコンサートを企画した。9月6日~12日に会場を押さえたが、藝術中心側が8月31日に「公共の秩序や公共の安全が脅かされる」などを理由に会場予約を取り消し、コンサートは中止に追い込まれた。

ところが彼女はあきらめなかった。当初予定していた9月12日の夜にオンラインでコンサートを実施したのだ。このコンサートには同じく歌手で、同性愛者であることを明らかにし、民主活動家でもある黄耀明(アンソニー・ウォン)もゲストで登場(香港の歌手のコンサートではゲストが登場することがほとんど)。彼女とそのスタッフはタダでは決して転ばない香港人のたくましさを感じさせた。

中国本土でもリスクヘッジのための外国籍がリスクに

香港人は本来中国籍だが、中国返還や1国2制度のなかで複数のパスポートを持つことができる特殊な状況にある。そんななかで知名度と財力のある香港や中国の芸能人は、家族や将来のため(政治的リスクヘッジを含む)、中国籍を破棄して外国籍を取得する人が少なくない。しかし、中国の放送を統括する国家広電総局は2021年8月から「限籍令」と呼ばれる公告を出した。これは外国籍を持つ芸能人の映画やテレビでの活動を制限するものだ。

カナダ籍を持つ香港の俳優、謝霆鋒(ニコラス・ツェ)は9月5日に放送された中国本土のテレビ番組で「自分は香港生まれで本来は中国人。カナダ籍を離脱する申請をしている」と告白した。映画のみならず自身のテレビ番組を中国で持っていることもあり、限籍令を考慮した動きだといわれている。

ネット上では、シンガポール国籍を持つカンフー映画のスター李連杰(ジェット・リー)や女優の鞏俐(コン・リー)、アメリカ国籍を持つ劉亦菲(リウ・イーフェイ)など、外国籍でありながら中国本土のエンタメ界で活動する芸能人たちがやり玉に挙がっている。中国国民にとっては「上級国民だからこそ、簡単に外国籍を取得できる」という嫉妬に近い思いもあり、国民の支持を失うと中国本土での芸能生活が厳しくなる。

中国は14億人という人口を背景に、2019年の映画市場は642億6600万元(約1兆円)とアメリカに次いで世界第2位。2020年は新型コロナで減収したものの、経済がいち早く回りだしたこともあり204億1700万元(約3200億円)とアメリカを抜いて世界第1位となった。中国本土で活動できないということは、つまり、巨大な中国市場でビジネスができないことも意味する。

習近平政権が掲げる政治目標「共同富裕」のスケープゴート

習近平は8月17日に開かれた中国共産党中央財経委員会の第10回会議で格差是正のため「共同富裕」という政治目標を掲げている。そのなかで富が集まりやすい芸能人をスケープゴートの対象にし、国民の格差への不満のガス抜きに利用した。

兆しはあった。2018年に人気女優の范冰冰(ファン・ビンビン)が脱税したとして国税当局は約9億元(約150億円)の支払いを命じた。2021年に入り女優の鄭爽(ジェン・シュアン)は巨額の脱税で約3億元(約51億円)の罰金を科した。また、彼女はアメリカで代理母が出産した子ども2人の母親でもあるが、のちに養育を放棄したと元パートナーが暴露。国民から非人道的と非難を浴びており、中国人民からの支持を取り付ける上で中国政府の格好のターゲットとなった。

ハリウッド映画、日本のアニメ、韓国の音楽などを見てもわかるようにソフトが人々に与える影響は大きい。中国政府の方針の下では、その影響力は邪魔でしかない。そして香港政府は、中国政府の方針に反対する選択肢はなく追随するしかない。デニス・ホーは民主派であることを鮮明にしたが、香港の芸能人の多くは政治面では完全に口をつぐんでおり、今後も“静か”に活動していくことだろう。

一方、巨大な富を稼いできた中国本土の芸能人も今後、快適に活動しにくくなっていくことだけは間違いない。中国政府にとっての芸能・エンタメは、人民からの人気取りにも、プロパガンダにも利用できるため、管理しながら規制のさじ加減を調整していくものとみられる。