急がば坐れ!~全生庵便り

全生庵を建立 禅に傾倒した幕末の剣豪 山岡鉄舟

2015.7.10

社会

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全生庵は、幕末の志士・山岡鉄舟が、明治維新で亡くなった志士たちの菩提を弔うために建立した禅寺だ。鉄舟は、勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末三舟」と呼ばれ、禅・剣・書の達人でもあった。平井住職の言葉とともに、彼が人生のなかでどのように禅に傾倒し、全生庵を誕生させたのかをたどる。

江戸城の無血開城に尽力した山岡鉄舟

山岡鉄舟は、幕末から明治にかけて幕臣として活躍した人物だ。その生涯を少し紹介しよう。

1836年、江戸で生まれた鉄舟は10歳の頃、飛騨へ移住し、剣術に明け暮れる少年時代を過ごす。17歳で江戸へ戻るが、その翌年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀に来航。このときの幕府のままならぬ対応に失望した鉄舟は、政権は朝廷に返上されるべきだと感じ、公武合体を目指して幕末の荒波に突入していく。

1867年に大政奉還がなされた際、鉄舟は東征軍司令部の西郷隆盛に、将軍・徳川慶喜の恭順の意志を伝える役目を任され、江戸城の無血開城に尽力。江戸総攻撃を防いで市民の多くの命を守った。鉄舟はその後、明治天皇の侍従を10年間務めあげ、仏教復権に勢力を注いだ後、53歳という若さでその生涯を終える。

鉄舟は1883(明治16)年に全生庵を建立するが、そこには明治維新による心の変化があったのではないか。全生庵の平井住職は、「維新が終わり明治の世になってから、鉄舟居士は維新で亡くなった同輩や部下の浪士たちの死を弔うため、全生庵を建てられました。明治維新において鉄舟居士は官軍に属していましたが、全生庵は幕府も薩長も関係なく、国事に殉じた人たちを弔ったお寺です」と語っている(以降のコメントはすべて平井住職)。

“人を斬らない”という剣の境地

鉄舟は9歳から、真影流久須美閑適斎の下で剣術を学び、その後、北辰一刀流・井上清虎に入門。20年以上にわたり厳しい剣術の修行を積む。数千回の試合をこなし、剣術を極めたというから並大抵ではない。

一方、参禅(禅の修行)は13歳の頃から。20歳で長徳寺の願翁和尚につき12年間の修行を経て、静岡県三島の龍澤寺、京都相国寺の独園など多くの禅師についた。

こうして子供の頃から”剣禅一如(けんぜんいちにょ)”の修行の日々を送り、いつしか無敵の境地に達する。身長180cm、体重150kgという堂々たる威風で、剣の迫力も相当のものだったに違いない。

明治13年、江戸・明治時代の剣術家として知られる浅利義昭から伊藤一刀斎の夢想剣の極意を受け継ぎ、無刀流を開く。鉄舟が開いた道場・春風館では、「立切」という、7日間で1,400回の試合を課せられる過酷な稽古が行われ、精神修行も重んじたという。

「剣術は、今でこそ『剣道』と呼ばれ一つの伝統となっていますが、本来は人を斬るための技術。ただの暴力だったんです。だからこそ、精神鍛錬となる禅を一緒にやることが必要とされました。心と技は両輪なんですね。鉄舟とともに『幕末三舟』と呼ばれた海舟や泥舟も、参禅していました。厳しい修行で剣禅一如の境地に達した鉄舟は、明治維新という激動の時代のなかで1人も人を斬らなかったことでも知られています。最高の剣の境地というのは、刀を抜かないで争いを収めることなのでしょう」

“書”で日本中の仏教復興を支えた

鉄舟は、その生涯で100万枚以上の書をしたためといわれ、全生庵にも多くの書を残している。

飛騨の幼少時代から名蹟・岩佐一亭に学び、ほどなく才能を認められて弘法大師入木道を受け継ぐ。書家・成瀬大域にも学び、次第に鉄舟の書は揮毫(きごう。頼まれて文字や絵をかくこと)として対価をもらえるほど価値あるものになっていった。

「鉄舟居士は、仏教再興などにはじまる社会公益、教育事業、災厄救済に尽力し、自らの揮毫を『救世の術』であると言っていたようです。本人はいつもお金がなかったため、自らの揮毫と引き換えに資金を生み出していたんです。全生庵も鉄舟居士が書いたたくさんの書によって誕生しました。明治時代には廃仏毀釈(仏教排斥運動)が起こり、多くの寺が被害を受けましたが、その後の仏教復興にも尽力し、日本中の禅寺が鉄舟の書によって救われたといいます」

勝海舟は、鉄舟についてこう言っている。
山岡は明鏡のごとく一点の私も持たなかった。だから物事にあたっても少しも誤らない。しかも無口であったが、よく人をして自ら反省せしめたよ」(『最後のサムライ 山岡鐵舟』より引用)

幕末から明治という激動の時代で、鉄舟は身の回りの多くの命を失い、人間の無力さ、愚かさを目の当たりにしたのかもしれない。その頃にはすでに、剣のために始めた「禅」は鉄舟の生き方の指針となっていた。そんななかで鉄舟は仏教復興に尽力し、全生庵の建立などを通して命の弔いに身を費やしたのだろう。

平和な日本は犠牲の上に

 

幕臣・山岡鉄舟は、動乱の世の中・維新の渦中にいて、書と坐禅という”静”を好み、その道を極めた。維新で犠牲になった御霊を祀る禅寺「全生庵」は、日本の文明開化をつくった志士たちを思い起こさせてくれる。

靖国神社も犠牲者たちが眠るが、このような犠牲のもとに、今の平和な日本がある。この争いを繰り返してはならない。静かに心を落ち着けて、争いごとのない世の中を作りたいものだ。

 

全生庵臨済宗国泰寺派 全生庵
住所:台東区谷中5-4-7
最寄り駅:JR・京成電鉄 日暮里駅より徒歩10分/地下鉄千代田線 千駄木駅(団子坂下出口より徒歩5分
全生庵