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[急がば坐れ!~全生庵便り]

「争いのもとは自分の心の中に」全生庵・平井住職と「平和」の意味を考える

2017年08月10日
読了時間: 06分00秒

写真/片桐 圭

「平和」は「戦争」と違って目には見えないので、定義が難しいと全生庵の平井正修住職は言います。響きが良いので、「平和のために」「平和を追求して」とよく言われますが、実はどんな状態を「平和」と呼ぶのか、多くの人はよくわからないまま口にしているのではないでしょうか。「平和」の意味をいま一度、平井住職とともに考えてみたいと思います。

平井正修プロフィール臨済宗国泰寺派全生庵
住職 平井正修(ひらい しゅうしょう)
1967年東京生まれ。臨済宗国泰寺派全生庵七世住職。1990年、学習院大学法学部政治学科を卒業後、2001年まで静岡県三島市龍澤寺専門道場にて修行。2002年より現職。2016年4月より日本大学危機管理学部客員教授として坐禅の指導などを行なう。著書に、『とらわれない練習』(宝島社)、『男の禅語:「生き方の軸」はどこにあるのか』(知的生きかた文庫)など。

戦争が無ければ平和なのか?

戦争が無い状態のことを平和と呼ぶなら、例えば江戸時代の260余年は対外的な戦争がありませんでしたから、平和な時代と呼べそうです。しかし、一揆や飢饉などもありましたし、その時代に生きていた人々が皆、平和だと感じていたかといえば、それはどうでしょうか。

今の日本でも、例えば、憲法9条に武力の放棄と戦力の不保持を謳っているため"平和憲法"と呼ばれています。確かに70年以上、戦争状態にはありませんが、他国から攻撃された瞬間にどうなるかわからなくなるような状態です。それで平和だと言えるのでしょうか。

よく人類の歴史は戦争の歴史だといわれます。古今東西、敵対勢力を制圧した征服者が王になり、戦争が無いという意味での平和な時間を築き、そしてまた戦争が起こるということが繰り返されてきました。

日本は有史以来ずっと天皇制が続いていることもあってちょっと特殊ですが、海外に目を向ければ、現政権の多くは何らかの戦いの勝者です。

戦争の始まり方も、洋の東西を問わず、どれも似ています。最初は「命よりも大切なものがある」と権力者や権力者と癒着したメディアが煽って開戦し、やがて疲弊して「命より大切なものは無い」という結論に至って終戦します。

戦争を経て、つかの間の安寧が生まれ、いつのまにか、また戦争に駆り立てられていく......。人の心は常にそうした矛盾した欲求や思いを抱えているように思えます。

smc

争いのもとは自分の心の中にある

仏教に限らず、あらゆる宗教は他人と仲良く心穏やかに暮らしたいという欲求のもとにつくられました。どうしたら自分の心が穏やかになるのだろうと考え、あるいは誰かを見て、どうすればこの人たちを救えるのだろうと思って。そうした人間の善なる部分をもって宗教は生まれてきます。

そんな宗教は理想であり、宗教家は理想家です。すべての人が争い無く暮らす究極の平和を、宗教は求めます。

禅も例外ではありませんが、「このようにすれば幸せになる」といった決めごとはありません。自分自身で考えて答えを導くことになっています。そのため、禅の考えでは、平和とは一人ひとりの心の落ち着き、つまり平穏のことをいうのです。

そもそも争いの大もとは、自分の中にあるもの。「あいつは嫌いだな」「あいつは調子に乗っているから俺が懲らしめてやらなきゃ」などという感情から争いが始まります。

誰かと利害が対立したときに「自分から折れるのは癪(しゃく)だ」などと思う人もいるでしょう。心の平和、平穏を得るには、これを克服することが必要で、究極を言えば、みんなが心の平和にたどり着くことで、争いのない世界が実現できるのですが......。

smc

どうしても求めてしまう、人のジレンマ

禅の言葉に「無事是貴人(ぶじこれきにん)」というものがあります。無事(求める心を捨てた境地)である人が最も貴い人である、という考え方です。

これも理想ではありますが、本当は何も求めないことが、最も平和な心のありようなのかもしれません。ですが、人は心の救いをさまざまな形で求めてしまいます。

例えば、人はどうも勝ち負けをつけるのが好きですね。勝ち組、負け組という言葉が流行したりして、本来は比べようがないようなものにも勝敗や優劣をつけようとします。

しかし、勝った負けたなどは一瞬のこと。「自分の方が正しいことを相手に納得させたい」とか「自分が謝ったのに相手は謝らないのが気に食わない」とか、小さなことにこだわっていると、心の平和は遠のいていきます。

ただ、禅における悟りも、求めなければ境界には達しません。人はそのジレンマを常に抱えるものです。

求めるべきは何なのか、虚心に考える

私たち禅僧は、悟りを求めて坐禅をします。坐禅する姿は、はた目には落ち着いて見えると思いますが、心の中では次から次へといろんなことが起きていることもあります。そういう意味では、微々細々にわたって心を見つめてみると、本当の平和は瞬間的なものかもしれません。

かくいうわたしも、どんなに修行をしていても、他人に何か言われたことで腹が立つこともありますし、何かを見て欲がわくこともあります。だからこそ、悟りを求めて日々、坐禅をします。

そうしてたどり着くのは、求めて修行していた日々それこそが「無事」だったということ。人は、求めることをやめられないからこそ、何を求めるかが大切なのだと思います。

»尊徳の俺にも言わせろ! この時期(終戦記念日近く)になると、メディアでは「平和」という言葉がよく出てくる。最近は改憲論議が盛んなので、余計に「平和憲法」(日本国憲法第9条)について考えさせられることも多い。


住職が言うように平和とは何だろうか、と僕も考えてみた。戦争の無い状態、を言うのなら、日本は戦後ずっと平和だったのだろう。しかし、北朝鮮からのミサイルが排他的経済水域に着水したり、中国との領土争いがあったり、いつ平和な状況が破られるかわからない。

僕には、軍拡や核兵器所持がそのまま平和への抑止力になるとは思えない。お互いの国や人との理解度が増す以外に本当の平和を作り上げることはできないだろう。

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