佐藤優氏の知識は広く深い。付き合えば付き合うほど、その奥深さがわかる。その読書量は半端ではなく、世界各国の名著から最近のベストセラーまで多岐にわたって渡って読み込んでいる。知識に裏打ちされた分析力があるからこそ、インテリジェンスを語れるのだと思う。佐藤氏の読書から読み解く力を参考にしてもらいたい。 第一回目はロシアの名著中の名著、ドフトエフスキーの「罪と罰」を取り上げた。(編集長 佐藤尊徳)
誰もが知る「罪と罰」だが、中身は案外知らない
この連載では、有名だが実際に読んだ人はあまりいない名著について扱う。ビジネスパーソンとして、特に国際的に活躍する人にとって、知っておくと得をする作品を取り上げたい。古典に限らず、新刊本やまだ邦訳がでていない洋書について紹介することもある。
初回は、フヨードル・ミハイロビッチ・ドストエフスキー(1821~81年)の『罪と罰』を取り上げる。ロシア人の名前は、なかなか覚えることができないほど長い。それは、父親の名前から取った父称があるからだ。フヨードルが名、ドストエフスキーが姓で、ミハイロビッチが父称だ。父親の名がミハイルだと父称はミハイロビッチになる。
『罪と罰』のタイトルの罪に道徳的な意味はない。ロシア語のプレストプレーニエ(直訳すると「一線を越えること」)で犯罪を意味する。それだから、『犯罪と罰』と訳した方が正確だ。舞台は19世紀、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルグだ。主人公は、抜群に頭がいいが、貧窮状態にあり、学費滞納で除籍された元大学生のロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフだ。彼は、善い目的のためならば、小さな悪事は許される、選ばれた者は、法律や規範を超える資格を持つという独り善がりの信念を持っている。
ラスコーリニコフは、悪徳高利貸しの老婦人アリョーナを社会から除去し、金を奪い自分の生活費にあてることは正しい行為と考える。そして、アリョーナを殺害する。そのとき偶然、アリョーナの部屋にやってきた彼女の妹のリザヴェータも殺してしまう。ただしたいした盗みはできなかった。完全犯罪を行ったはずなのに、ラスコーリニコフは自責の念に苦しめられる。やり手の予審判事(日本だと捜査一課の刑事のような役割)ポルフィーリが物証はないが、ラスコーリニコフが犯人だという心証を抱き、心理戦で自白させようと試みる。しかし、知能犯であるラスコーリニコフを落とすことができない。
人間心理を読めばビジネスにも活かせる
ラスコーリニコフは、家族を飢餓から救うために売春婦になったソフィア・セミョーノブナ・マルメラードワと知り合う。ちなみにロシア語には男性形、女性形、中世形がある。セミューノブナは女性形の父称で、父の名がセミョーンということだ。それからロシア語には愛称がある。ソフィアという名を親しみを込めて呼ぶときは、ソーニャ、ソーネチカになる。ソーニャは殺されたリザヴェータの親友だ。どのような苦境においてもソーニャは神に対する信仰を失わない。ラスコーリニコフはソーニャの感化を受け、自らの犯罪を告白する。
<「帰りぎわに言ったよね。もしかしたら、これが最後の別れになるかもしれないって、だけどもし、今日来られたら、きみに話してあげるって……リザヴェータを殺したのはだれか」
ふいにソーニャは全身でふるえだした。(中略)
「見つけたんですね、その人を」おそるおそる彼女はたずねた。
「いや、見つけたんじゃない」
「じゃ、どうして知ってらっしゃるの?」ふたたび一分ほど間をおいてから、かろうじて聞こえるほどの声で彼女はたずねた。
ラスコーリニコフは、いきなりソーニャのほうをふり向き、じっとその顔をのぞきこんだ。
「当ててごらん」さきほどと同じ、弱々しいゆがんだほほえみを浮かべて彼は言った。
彼女の全身にけいれんが走ったようだった。
「でも、あなたは……わたしを……どうして、わたしを、あなたはそう……脅かしたりするの?」子どものような笑みを浮かべて彼女はたずねた。
「つまりさ、ぼくはその男と、たいそう仲良しでね……知ってるくらいだもの」ラスコーリニコフは相手から目をひきはなせなくなったかのように、彼女の顔をじっとのぞきこみながら言葉をついだ。「その男に、あのリザヴェータを……殺す気はなかった……その男は、リザヴェータを……ぐうぜん殺してしまった……その男が殺そうとしたのは、ばあさんだった……ばあさんがひとりのときをねらって……そして、出かけていった……それなのに、そこへ、リザヴェータがもどってきた……その男は、だから……彼女も殺してしまった」
さらに恐ろしい一分が過ぎた。ふたりはたがいに顔を見合わせたままだった。>(第3巻、126~128頁)
人間は、自己犠牲的な行動をする人に惹かれ、秘密を告白する。この人間心理をビジネスにも応用することが可能だ。