社会

禅的思考で頭スッキリ 継続して努力すること

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2016年はオリンピック・パラリンピックに世界中が熱狂。想像を超えた記録やドラマチックな展開は、私たちに大きな感動を与えてくれました。世界各国から集まった出場選手たちは、メダルという目標に向かって一体どれだけの練習を続けてきたのでしょうか? そこで今回は、「継続して努力すること」について住職に聞いてみたいと思います。

日常のことに心を込めて

“継続して努力する”というと大変なことのようですが、実は、生きることはそれ自体が努力の積み重ねです。日常生活から離れた、特別なこととしてとらえるものではありません。

私たち禅宗の僧侶になる者は、多くが大学卒業後に修行道場に入ります。「修行って滝に打たれたりするんですか?」とよく聞かれますが、皆さんが想像されるほど特別なことはしません。日々、朝から晩まで、自分のするべきことに心を配ることが修行であり、最終目的である”悟り”に近づくための努力なのです。

一例を挙げましょう。僧侶の食事がなぜ「精進料理」と呼ばれるのか、ご存知ですか? 禅宗の修行において、料理や掃除などの日常的な仕事も、坐禅や読経と同じように修行だと考えます。特に、すべての修行者の体のもとを作り、動物や植物の命を扱う料理は、とても大切なこととされています。

精進料理ではけんちん汁をよく作りますが、これは他の料理で出た野菜クズまで生かすためのもの。葉っぱの一枚、米粒の一つまでムダにしない考えで料理をしています。台所での仕事こそが、もっとも徳を積むことができる大切な修行、要するに”精進”なのです。

修行=我慢の時間になってはダメ

修行道場に最低3年いれば、住職になる資格が得られます。それが待ち遠しくて、カレンダーに×をつけて数える人もいます。気持ちはわからなくないのですが、修行が終わるまでその考えが変わらない人は、何もしなかったのと同じことになってしまうでしょう。修行道場を出た途端に「やっと解放された!」と、すぐに元の生活に戻ってしまうからです。

修行中は、学生時代のように友達と遊びに行ったりできないので、最初は誰しも不自由に思うものですが、どこかで頭の転換をすることが大切です。修行道場での生活は禅僧の生活の基本ですから、当たり前のものとして身に着ける必要があります。修行時代が「特別に我慢をしている期間」になってしまうと、体がそこにいただけのことで、修行にはなりません。

禅僧の修行を例に挙げましたが、「自分は今、特別なことをしている」という思いがある努力に、大した成果はありません。そうではなく、はたから見てすごく大変なことも自分に必要とあれば続け、そうして続けることを当たり前と思うこと、努力を努力と思わないことで、身につくものがあるのだと思います。

あえて達成できないほど大きな目標を

スポーツにしろ、学問や仕事にしろ、目標を立てて努力し継続していくことが多いですよね。私たちの場合も”悟り”という目標があります。ただ、目標を達成することが人生最大の目的かといえば、決してそうではありません。

目標は、日々を努力するために立てるものです。そこをはき違えて、目標を達成するとすばらしい何かが起きるものと期待してしまうのは危ういと思います。そういう気持ちでいると目標を達成した途端、自分が向かうべきところを見失ったりしがちですから。

目標を立てるなら、達成できないほど大きなものが良いと思います。大乗仏教には”四弘誓願(しぐせいがん)”というものがあります。煩悩は尽きることがないけれど誓って断っていこう、仏道にはこれが最上といえるものはないけれど、それでも誓って無上を目指していこう、といった抱負です。

ちょっと矛盾して聞こえるかもしれませんが、これぐらい高い目標を立てると、生涯叶うことがないので、ずっと努力をしていられます。努力は、外(他人)から何か得るためのものではなく、あくまで自分を磨くために継続していくものだと考えましょう。

努力の継続が心を支えてくれる

中には自分でやると決めたことが、なかなか継続できないという人もいるでしょう。そういうときは、何のための努力か、改めて考えてみるといいかもしれません。

自分のやりたいことに必要な努力なら、「面倒だ」「これを続けて良いことがあるのか」などと余計なことを考えずにできるのではないでしょうか。どうしても継続できないときは、周りに宣言するとか、お金をかけるとか、やらざるをえない状況に自分を追い込むのも良い手かもしれません。

私の父はよく「どんなことであれ、10年続ければ、それで飯が食えるようになる」と言っていて、私が修行に出るとき、父から「10年は戻ってくるな」と言われました。私は、修行を3年でやめずに10年続けました。だからこそ、今、いろいろなことに自信を持って接していられます。努力の継続は、力をつけるためという以上に、不安なときに心を支えてくれるものなのです。

壁を乗り越えていけるかどうかは経験がものをいう

 

“苦労は買ってでもしろ”とよくいうが、一生苦労を知らないで過ごせれば、そんな幸せなことはない。しかし、人生は必ず壁にぶち当たる。その時に乗り越えていけるかどうかは、それ以前に経験したことがものをいうので、どん底を経験している者は、やはり強い。

僕が知る経営者たちも、どん底を経験したから今があるとよくいう。その時の経験で精神に耐性がつき、何か壁にぶち当たっても、あの時の苦労に比べれば対したことない、と思うことができるのだ。

修行も同じで、自分の精神や身体に耐性を付けて、この先を穏やかに過ごすためと考えればよいのだ。物事をなすときに、今、していることが何のためにするのかと考えて行動すれば、おのずとすべきことも見えてくるし、目の前の苦労も苦労と思わずにいられるはずだ。