怒りを捨て、自分と同様に子どもを尊ぶ【児童虐待はなぜ起きるのか】
社会

怒りを捨て、自分と同様に子どもを尊ぶ【児童虐待はなぜ起きるのか】

0コメント

平成29年度の全国児童相談所における児童虐待相談対応件数は過去最多で、統計を取り始めた平成2年度から27年連続で増加しています。また、昨年一年間に全国の警察が摘発した児童虐待事件は1,380件で、こちらも統計を取り始めた2012年から増え続けています。かわいい我が子であったはずなのに、親はなぜ虐待し、ときに死なせてしまうようなことになるのか。平井住職と考えました。

虐待の引き金となる「怒り」は“捨てる”

「児童虐待」は定義が複数あり、肉体的、精神的な暴力のほか、親の性的嗜好に起因する性的虐待などがあります。原因も多岐に渡り、一括りにお話するのはとても難しい。それだけ、虐待する親の心の問題は非常に難題であり、抜本的に解決することはおそらくできないでしょう。

児童虐待

厚生労働省が定める児童虐待の定義は4種類に分類される。殴る、蹴る、投げ落とす、激しく揺さぶる、やけどを負わせる、溺れさせる、首を絞める、縄などにより一室に拘束する「身体的虐待」。子どもへの性的行為、性的行為を見せる、性器を触る又は触らせる、ポルノグラフィの被写体にするなどの「性的虐待」。家に閉じ込める、食事を与えない、ひどく不潔にする、自動車の中に放置する、重い病気になっても病院に連れて行かないなどの「ネグレクト」。言葉による脅し、無視、きょうだい間での差別的扱い、子どもの目の前で家族に対して暴力(ドメスティック・バイオレンス)を振るうなどの「心理的虐待」。

私自身も子どもを持つ身ですので、子育ての中でイライラしてしまうという気持ちはわかります。生後何カ月かの子どもに話をしたってわかりません。意思疎通ができないのですからどうしようもない。

小学生になっても、やってはいけないことを注意してもなかなかやめませんしね。すぐ忘れますし。「昨日言ったでしょ」って言っても覚えてないんですから。だから子育てには根気が必要だなと思います。

でも、最初からきちんとできるわけないですし、子どもはそもそも言うことを聞かないもの、言うこと聞かなくて当たり前ぐらいに思っていた方がいいです。そうすればそんなに腹は立ちません。

虐待をしてしまう人は、「腹は立つけどしょうがない」という諦めのようなものができないのかもしれません。あるいは真剣に生後何カ月かの赤ちゃんや幼い子どもに怒りをぶつけているのか、誰かに感じた怒りを弱い者で解消しているのか。そこはよくわかりません。

仮に「怒り」が原因だとすれば、禅は基本的には「捨てよ」と言います。スッと何かわき上がってきた心=怒りに対して長くひと息吐くことで捨てていきます。

心理学でも、どんな怒りもピークは6秒と言われています。6秒なんてひと息です。そこでひと息吐けるのか、吐かずにまたわき上がってきた怒りに輪を掛けて、念をつないでいってしまうのか。怒りで自分を見失うかどうかはそこの違いだと思います。

怒りを完全に捨てられないこともあると思います。ひと息吐いても再び怒ることもあるでしょう。でも、そこで増幅させなければいいんです。怒りを増幅させることが一番良くない。「ひと息吐くことで捨てる」という方法を知っているかどうかは、心にかかる負担を軽くする意味で大きいと思います。

上がる、落ちる、また上がる、落ちる。この限度を超えなければいいだけのことです。怒りはそのうち収まります。一生怒っている人はいませんから。

迷惑をかけない子育てはない

今は周りに迷惑をかけずに自分たちだけで子どもを育てていこうと思う親が多いといいます。でも、それは本当に正しいのでしょうか。自分が死ぬときも「迷惑をかけたくない」と思う人は多いです。「お墓があると子どもに迷惑をかける」という方もいます。立場上、お墓って迷惑なの?と思いますが(笑)。

「迷惑をかけない」という心境自体は正しいと思います。でも、人間は他人に迷惑をかけてしまう生き物です。仏教における「生・老・病・死」の四苦、これらはすべて他人に迷惑をかけて成り立っています。子育ても同じです。

大事なのは、迷惑をかけるという前提のもと、なるべく自分の欲が自然の状態を逸脱しないように制御していくことです。

仏教にはお釈迦様が入滅する前に弟子達に説いた「遺教経(ゆいきょうぎょう)」というお経があります。その中には「我すでに汝らに戒を誨(おし)え」とあり、「これを重んじこれを尊ぶこと、暗きにありて光に会い、貧しき人の宝を得るが如くなるべし。これこそおんみらの生きたる師なればなりとる」と続きます。

お釈迦様は「自分が生きていたとしてもお前たちにはこの戒を教えることしかできない、戒に従って正しく生活をしていくことによって心も整っていくのだ」と説いたのです。

「謝罪の回」 でもお話しましたが、「戒」とは日常をこういう風に生活していきなさいという戒めのことです。出家、在家限らず一番基本的な「五戒」は、不殺生(ふせっしょう)、不偸盗(ふちゅうとう)、不邪淫(ふじゃいん)、不妄語(ふもうご)、不飲酒(ふおんじゅ)。要するに、殺してはいけない、盗んではいけない、淫らな性生活をしてはいけない、嘘をついてはいけない、酒を飲んではいけないということです。

「五戒」は“これを絶対してはいけない”ということではなくて、“欲の赴くままにこういうことをすると大変なことになりますよ”という意味です。自分を締め付けるもの、縛るものではなく、なるべく他人に必要以上に迷惑をかけたり傷つけたりしないようにする、というものです。

虐待の問題に限らず、われわれは“自分の心”というものを改めて考えた方がいいと感じます。健康なときは「心なんて整える必要あるの?」と思いがちですが、病気もなってから治すのではなく、普段から病気にかからない体を作ることが一番良い。普段から生活を整え、心を整えることが大事です。

人間は杓子定規に生きられない

一方、虐待が増え続けるのは親の心の問題だけでもないと感じます。人の心の変化よりも生活の変化、環境の変化が大きいと思います。

世の中は物質的に豊かになりましたが、そうなると心を見失うのは常です。みんな貧しかった時代は隣近所と助け合っていて、今のように自分たちだけで生活するなんてあり得ませんでした。

加えて、核家族が増えたことや、自由だと言われている割には杓子定規で不寛容な考えが席巻する世の中の閉塞感など、そういう空気もまた、「迷惑をかけてはいけない」と思わせたり、親子の孤立化を招いたりしているのでしょう。

でも、人間は生きること自体が杓子定規の中に入りません。何かひとつの型に閉じ込めようとすれば、それはどこかで歪んでくるものです。最初に話した、子育てにイライラしてしまうのも子どもは杓子定規の中に入らず自由だからです。最初からきちんとはなれない。そう思うぐらいの心の幅は必要だと思います。世の中も、もっと“遊び”が必要だと感じます。

子どもは親のものではない

お釈迦様は生まれたときに7歩歩いて、右手で天、左手で地を指し、四方を見渡して「天上天下唯我独尊」と仰ったという伝説があります。「我」というのは人間すべてのことで、つまり、人間一人ひとりはかけがえのない尊い存在だという意味です。

だから、人間として大人が完成形で、子どもが未熟ということはありません。子どもも大人も老人も等しく尊い、ひとつの完成形であるということです。

「子どもは授かり物」という言葉がありますが、まさにそうで、自分のものではなく、授かっているだけです。親のものでは決してありません。

だから、育てて何とか世の中に通用するようにして、また世の中に返してあげないといけない。そうして次の世代へ引き継いでいくのが当たり前なんです。

自分自身が大事な存在だからこそ、同じ価値を持つ子どもも傷つけないようにしましょう。