山口県にある酒造メーカー・旭酒造の会長を務める桜井博志氏は、純米大吟醸酒「獺祭(だっさい)」を生み出し、旭酒造を日本屈指の酒造メーカーに育て上げた立役者。今でこそ「獺祭」は世界で飲まれるブランド銘柄だが、蔵元はかつて廃業寸前にまで低迷。立ち直らせたのは桜井会長の型破りな経営だった。 2月19日、WASEDA NEO(日本橋)のパイオニアセミナーに登壇した桜井会長が、旭酒造が現在の地位を築くまでの経緯と、その背景にある酒づくりの理念を語った。
WASEDA NEO
2017年7月、コレド日本橋5階にオープン。ビジネスパーソンのスキル獲得、異業種交流とコミュニティの形成、トレーニングプログラムの提供などを通し、「未来を考える場所」として展開している。年会費制の「パイオニア・コミュニティ」会員は、桜井会長も登壇した対話型プログラム「パイオニアセミナー」への参加無料(一般の方は税込み5400円/回で参加可能)。
消費量減少のなかで起きている日本酒ブーム
日本酒ブームと言われているが、農林水産省によると日本酒全体の消費量は、実はこの20年で半減している。1975年のピーク時には170万リットルを超えていた消費量は、2010年以降は60万リットルを割り込む。
ただし、アルコール添加した本醸造酒などの普通酒の減少に対して、吟醸酒や純米酒といった特定名称酒の消費は2010年以降伸びており、これはニーズが“量から質”に変わっていることを示している。旭酒造が手がける「獺祭」の出荷量は、この伸びと重なる。その経緯をたどってみよう。
一時、蔵元を離れていた桜井博志氏が旭酒造へ本格的に戻ったのは1984年のこと。当時の生産量は、最盛期の2000石(1石=1.8リットル入り一升瓶100本)から3分の1の700石にまで落ち込んでおり、「旭富士」という、桜井会長曰く「質より量の2級種」のいわゆる“安酒”がメインだった。山口は岩国の酒蔵としては4番目という低迷ぶり。
社長就任から数年を経て「このままではあと10年もたないかもしれない」と感じた桜井会長は、“質”への転換を求めて、うまい純米大吟醸酒だけをつくる経営に舵を切る。
デジタルデータでつくる純米大吟醸
しかし、実現するには人材の確保という大きな壁があった。
日本酒は昔から、酒造りのプロである杜氏が職人としての経験や勘を頼りに製造を行なってきたが、いま現在、「獺祭」の製造に杜氏はいない。代わりにいるのは、200人を超える製造スタッフだ。
杜氏が持つ経験や勘に頼らない代わりに、旭酒造は製造工程の徹底したデータ化を行ない、パソコンにデータを蓄積して分析してきた。うまい酒をつくるための水の量や温度などを数値化し、再現可能な製造方法を導き出したのだ。
ITをフル活用するロジカルな酒造りは、「まごころや大和魂だけでは酒はうまくならない」という桜井会長の言葉にも象徴される。常識外れだが、この製造方法で年間2万6000石(4680キロリットル、2016年)を生産する。ただ、ここまでの道のりは遠かった。
「社長になった頃の杜氏はひどかった。3年目から優秀な但馬(兵庫県北部)杜氏が来てくれることになり、少しずつ酒も良くなって、売上も1億円を切るところから2億円まで上がっていきました。『いけるかも……』と思ったのですが、先を考えたときに杜氏の高齢化がネックになることに気づきました」
そもそも昔ながらの杜氏制度は、“背中を見て覚える”職人の世界。働いていれば勝手に技術が身につくわけでも、なれる保証があるわけでもない。近年になって、若い世代がなかなかついていけないものになっていた。
また、酒造りは冬に行うことが多く、杜氏は冬の間だけ酒蔵に来て酒造りを行う。蔵元は冬以外の季節に賃金を払う必要が無いため、杜氏制度は杜氏と蔵元にとって都合の良い雇用形態ではあるが、後継が育ちづらくもあった。そんななかで杜氏は高齢化していく。当時、旭酒造にいた但馬杜氏をはじめ、ほかの酒蔵の杜氏もほとんどが60~70代後半だったという。
酒造りの素人たちで再出発
ある事業を失敗したことを機に杜氏が酒蔵を去ったため、桜井会長は杜氏制度を廃止して従業員だけで酒造りを行うことを決意する。残っていたのは瓶詰などの作業に従事してきた若手数人だけだったが、それまでにも桜井会長が杜氏にたびたび口を出し、酒造りのノウハウを蓄えていたことから、辛うじて素人だけでも酒造りが可能だった。
そうして旭酒造は、先のデータ化を行なうなかで、空調設備などの技術向上に伴い「四季醸造(通年醸造)」を行なうようになり、生産量を増やしていく。桜井会長が旭酒造の社長に就いた1984年から15年で1億円の売上が2億円に、その後の18年間で120億円にまで増やす。
成長の理由について、「杜氏がいなかったから。あのとき、杜氏が『給料もらえなくてもやる』と言ってくれていたらここまで成長していなかった」と桜井会長。
さらに、地元である山口県内の消費に執着せず、東京の市場を積極的に開拓したことも大きい。「私どもの酒をブランド化してちゃんと売ってくれる酒屋だけで販売した」という販売戦略は、その後、世界に市場を広げ、今では海外で売り上げる日本酒の10%超を旭酒造の「獺祭」が占めるという。
旧来の製造慣習を無視し、地元の声を差し置いて大きなマーケットを追い求めてきた旭酒造は、難しい道をわざわざ選んできたかに思えるが、活路はそこにあった。そして「獺祭」は、世界的シェフのジョエル・ロブションから共同店舗の声がかかるほど評価される、世界一有名な日本酒になった。
桜井会長は、「業界が揺れ動いていたからここまで成長できた。業界が安定していたら今は無い」と振り返る。
世界の「獺祭」に課された使命
旭酒造の2016年9月期の売上高は108億円、2019年の輸出は14億円と上昇傾向。20カ国で展開し、2018年現在、ニューヨークに醸造所を建設中だ。
山口県の小さな村でつくられていた「獺祭」は、いまや業界を牽引する存在。役割が変わったことで、これまで成功してきた手法が通じないときが来るかもしれない。しかし、「アメリカでつくる酒で日本を超えようと思う」と語り、海外で起きているといわれる日本酒ブームを「まったくうまくいっているとは思わない」と言い放つ桜井会長の目は、つくり手の責任と野心にあふれていた。
そんな桜井会長の講演を聞いていた聴講者の一言が面白い。
「『まごころや大和魂だけで酒はうまくならない』と桜井会長は言いますが、『獺祭』は桜井会長のまごころと大和魂がつくり出したお酒だと思います」