日本人の平和主義観念はいかに生まれたか

国会前で集会をする護憲派(2017年11月) 写真:Rodrigo Reyes Marin/アフロ

社会

日本人の平和主義観念はいかに生まれたか

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改憲の話になると必ず議論が過熱する憲法9条。戦争放棄を規定した、世界に唯一存在する平和憲法は“非軍事国家日本”の象徴であり、日本人の平和主義観念に大きな影響を与えているものだ。国民投票法改正案が可決に向かい改憲議論が再燃しつつある今、憲法9条が成立するまでの経緯に、今後の議論の行方を探る。

シビリアン指導者たちによる非軍事化

アメリカの対日占領政策の最も重要な目的のひとつは、1945年9月に出された初期対日方針にも示されているように、「軍備撤廃および非軍事化が軍事占領の主要要件であり、迅速にかつ着実に実施されなければならない」ということだった。日本が降伏文書に調印をした時点では、まだ260万にのぼった日本軍人が約1カ月で武装解除された。

シビリアン指導者

英語では“civilian leaders”のように表現される。軍部や軍国主義的膨張政策に荷担することはあっても、基本的に政党、官僚組織、実業界など軍部組織以外に自分の権力基盤をもっている指導者のことをさす。適当な日本語がみつからないのでシビリアン指導者という用語を用いた。

シビリアン指導者を中心とした日本政府は、非軍事化に関して積極的に占領軍に協力した。その理由は、国内における急進的社会革命を防止するとともに、軍部に戦争責任を全面的に負わせ、シビリアン指導者が権力を握ることだった。

敗戦後、日本人は天井知らずのインフレーション、食料不足、未来への希望の喪失などに苛まれながら、戦時中同様、あるいはそれ以上に辛苦のどん底の生活を送ることを余儀なくされていた。彼らの不満と怒りは爆発寸前だった。それを事前に防ぐためにも、はけ口が必要だった。

敗戦後、日本の国政を司ることになったシビリアン指導者は、占領軍の支持を背景に、軍国主義者を糾弾し、彼らこそが今回の戦争の全責任を背負うべきだと主張した。そのようにして、日本人に政治的および心理的に必要だったスケープゴートを提供したのである。

シビリアン指導者たちは、アジア太平洋戦争を日米関係の“大いなる逸脱”すなわち日米関係は協調を基調としたが、軍国主義者が日本人を欺き、破滅の道をひた走ったと主張したのである。

“戦争放棄”が持つ劇的な変化のイメージ

戦争放棄を規定した憲法9条は、1945年10月に行われた連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥と幣原喜重郎首相との会談に由来する。連合国総司令部(GHQ)は、日本が自主的に、民主的で世界に受け入れられるような形で新憲法を作成することを期待していた。

1946年2月、毎日新聞が日本政府内の憲法草案らしきものをスクープした(実際には、政府部内で議論の対象となっていた草案ではなく、最終草案を仕上げる途中の段階で作成された数多くある諸草案の一つだった)。その草案は、天皇制には実質的にほとんど手をつけていない保守的なものだった。反日感情が高揚し、天皇の戦争責任を追及していた世界世論にはとても受け入れられそうにはない。マッカーサーは、世界世論に受け入れられそうな、劇的な変化のイメージを伴う変革を加えた、画期的な新憲法草案をGHQ主導のもとに作成せざるを得なくなった。

その変革が、天皇の象徴化と戦争放棄だった。この2つは硬貨の裏表のように一対のセットになっていた。マッカーサーの意図は、天皇制の存続を保証し、占領統治をスムーズに進めること。さらに、戦争放棄という画期的な条項を含んだ新憲法を提示し、“非軍事国家日本”というイメージを高らかに謳い上げることで、海外の対日批判派にこの新憲法を承認させようとしたのである。

こうして日本人の平和主義観念は生まれた

憲法9条は、軍国主義者からシビリアン指導者へ権力が移譲していくその結果である。しかし、これは戦後日本における、複雑で奇妙な遺産となった。アメリカによる非軍事化政策および日本の反軍国主義者キャンペーンは、戦後日本人の平和主義(pacifism)追求に大きな役割を果たすことになる。

1945年11月28日、幣原首相は衆議院において“大いなる逸脱”論を展開した。すなわち、明治維新とともに始まった近代民主主義の歴史が順調に発展していたにもかかわらず、1930年代以降、反動派軍国主義者によって妨害されてしまった、と軍部に戦争の責任を押しつけたのだ。したがって、日本人は軍部を除去し、われわれ民主主義推進勢力に国政を預けるべきだと主張した。

それによって、日本人の多くは、自分たちが軍国主義者の愚行による哀れな犠牲者だという被害者意識を強く抱くようになり、アジア太平洋戦争が持つ侵略の側面を次第に忘却していった。

それは、軍国主義に支配された戦争期を積極的に否定し、自由主義的な諸制度や思想を再導入することによってしか、自分たちの権力を保持できなかったシビリアン指導者たちの扇動に合致するものだった。シビリアン指導者を先頭に、日本国民は軍国主義者の“犠牲者”というイメージを抱き、本来、日本人全員がもつべきだったアジア太平洋戦争の責任というものを感じなくてもいい心理構造が出来上がっていったのである。

日本国民は、“自分たちは犠牲者だ”という感情によって、軍国主義に大きな幻滅を抱き、ほとんど病的なまでに平和主義(pacifism)観念を抱くようになった。そして軍国主義者によって支配されていた満州事変以来の日本を、“大いなる逸脱”と理解するようになった。

病的なまでの平和主義によって、主権国家中心の近代世界にいる現実を忘却したかのように、国家の安全保障よりも憲法9条堅持を重要視するようになったのである。

憲法9条の光と影

そんな風潮にあった当時も、憲法9条に違和感を持つ人もいた。国会討論で、日本は憲法9条によって自衛権まで放棄しているのかと質問する議員もいた。侵略戦争は悪だが、外国の侵略に対する自衛戦争は承認すべきであると主張する議員もいた。日本には自衛権があり、最低限度の軍備をもつべきだと提唱する議員もいた。吉田茂首相は答えて、たとえ自衛のためであっても再軍備は禁止されていると述べた。

しかしながら、吉田の真意は再軍備の放棄ではなく、経済的能力が備わるまで無理な再軍備をしないということだった。ただ吉田は、自分の首相在職時期に、日本が十分な再軍備をできるだけの経済力をつけることができるとは考えておらず、結果として公には再軍備を拒否する言動が可能だった。

マッカーサーにしても、憲法9条の目的はその劇的なイメージを世界に与えることであって、真に自衛のための戦争放棄まで望んでいたかどうかは疑わしい。彼は日本国民が新憲法を修正できる自由を持っていることを保証し、1947年1月には吉田首相に対して1~2年ほどすれば日本が憲法修正することも可能となろうと伝えていた。

日本側でも衆議院憲法修正特別委員会が1946年7月~8月に開催されたが、その場で芦田均委員長らの働きかけでいわゆる「芦田修正条項」が付け加えられ、将来の解釈次第では、自衛のために軍備を保持し、使用する権利を有することができるようになった。

芦田修正

憲法9条の1項冒頭に、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」を、2項に「前項の目的を達するため」を挿入したこと。

日本国民の間に浸透していた平和主義によって、憲法9条は大方の予想を裏切って現在まで生き延びている。終戦直後のさまざまな条件が重なり合った磁場の中で、戦争放棄条項がある種の自律的モメンタムを持ったのである。

憲法9条には、近代世界における戦争の正当化を含む論理を超越した論理が内在化しており、その存在によって、日本における軍事化の速度および軍国主義者の台頭が抑制されているのである。われわれには憲法9条が持つ光と陰を理解し、光をさらに輝かせ、陰を抑えていく責務がある。