「なぜ、”敗戦70年”と言わないのか」元特攻隊員。焼け野原からの創業 ライフ会長・清水信次(89歳)

2015.7.10

社会

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写真/片桐 圭 文/編集部

陸軍の特攻隊として訓練するなかで終戦を迎え、戦後は実業家として生き抜いた人物、清水信次。死を覚悟しながらも、頭の隅では誰よりも死を恐れた元軍人は、70年を経た今の日本に何を感じているのだろうか。

株式会社ライフコーポレーション 代表取締役会長兼CEO

清水信次 しみず のぶつぐ

1926(大正15年)年4月18日、三重県生まれ。株式会社ライフコーポレーション代表取締役会長兼CEO。戦時中は陸軍に入隊。復員後、大阪で後の食品スーパー・ライフとなる清水商店を設立。以降、チェーン展開し、1984年に東証・大証第1部上場。2015年2月までに245店舗を展開。2011年より日本チェーンストア協会会長を務めるほか、日韓協力委員会副会長などの公職も務める。1986年、藍綬褒章を受章。

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戦車の下に突撃するという特攻任務

戦時中は10代半ば、軍人になって国のために戦うことが当然だと思っていたよ。1942年、私は海軍兵学校と陸軍士官学校に落ちて、井上成美中将(海軍兵学校校長)に手紙を出して自分の軍人になりたい思いを語ったほど。そのうち、嫌でも徴兵されることになるんだけど……。

私が陸軍に徴兵されたのは1944年、18歳のとき。この頃には、戦争が長くは続かないだろうと感じていたので、前線に送られるのはなるべく遅らせたいと思っていた。しかし、そう甘くはなかった。地獄の訓練と、翌年の9月には、地雷を抱えて戦車の下に潜って突撃するという特別攻撃隊の任務が待っていた。目の前を戦闘機の掃射砲が走り抜けることなど日常茶飯事、よく今まで生きてこれたと思う。”生かされてきた”としか思えない。

連戦連勝の報道とは裏腹に、状況が悪くなっていくのは肌で感じていた。一般の国民に竹槍まで持たせて戦い抜くなどと、当時の為政者、軍の幹部たちは何を思っていたのだろうか。ただ、当時は国家に恨みを抱くこともなければ、憎しみもない。淡々と自分の運命を受け入れていた。「戦争反対」などと叫べば特高警察がきて、しょっぴかれてしまったし、一種の宗教のようなものだった。

特攻隊の証明書
特攻隊の証明書。無謀な作戦にも疑問を持たなかったと語る清水氏。

 

日本軍

生きるために闇市を駆け回った

死と隣り合わせの毎日を送り、いよいよ来月突撃というとき、兵舎で玉音放送を聞き、終戦を迎えた。いつ死ぬかわからない緊張感から解き放たれ、生きていけることが素直にうれしく、涙があふれた。

復員して故郷に戻ると、そこは一面焼け野原。家族は命からがら疎開して、生きてはいたが、全財産を失っていた。生きていかなければならないので、闇市で物を売ろうと思い、軍の装備として持っていた飯ごうや水筒などを売り、それで”元手”を作った。食べ物があれば売れる時代だった。

戦前に父が取引していた問屋に行くと、快く品物を分けてくれたりもした。物資が足りず、闇市で物価が高騰しないための統制令が出ていた時代、売れないもの以外のものを分けてくれた上に、料金は後払いでいいという。涙が出るほどだった。

漁師に魚を分けてもらい、闇市まで運んで売るということを繰り返すなかで、警察に捕まったときには、周りの人たちが、文句を言って助けてくれた。貧しかったけれど、みんなが助け合い、人情にあふれた時代だった。

物があれば飛ぶように売れたが、肉や魚は重かったし、見つからないように運ぶのはいくら若い軍人上がりでもきつかった。苦労しながらも、500円だった元手が、ひと月で2万円になると、その資金で父がやっていた店を再興した。

清水商店
敗戦直後、生きるために物を売った行為が、食品スーパー「ライフ」として後の世につながっていった。

 

そして東京へ…ライフの母体を創業

そうして戦後5年がたった頃、隣の国で朝鮮戦争が始まった。共産主義vs民主主義の戦いだ。私は、アメリカはそちらに注力しなければならなくなるので、占領政策が大きく変わるはずだとピンと来て、日本の中心である東京に向かう決心をした。

東京は焼け野原で、遠く品川の方まで見渡せた。戦後まだまだ復興も途中の頃の話だ。東京で明確な目的があったわけではなかったが、朝鮮戦争の特需もあり商売は儲かった。そして、パイナップルやバナナなどの果物の輸入を始めることになる。現在のライフコーポレーションの母体だ。

同じことを繰り返そうとしているのだとしたら

今、敗戦から70年がたち、飽食の世の中になったが、未来の話がほとんどない。この国の今後あるべき姿を論じている人がいない気がする。隣国と領土や領海を取り合って、戦時中と何も変わっていないではないか。戦時中に発行された大東亜国債など紙屑になり、焼き払われた家の保障もないまま。なぜ、”敗戦70年”と言わないのだろうか。日本は、あの戦争の総括を何もしていないのだ。

人間は愚かだ……。同じことを繰り返そうとしているのだとしたら、私はあきらめの気持ちにすらなる。

清水信次