急がば坐れ!~全生庵便り

「謝罪」は恋愛と同じで相手に伝わらなければ意味がない

2018.7.11

社会

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「謝罪」は恋愛と同じで相手に伝わらなければ意味がない

写真/片桐 圭 取材/赤坂麻美

芸能人の不倫や政治家、企業の不正、不祥事。最近はテレビやネットを通じて、毎日のように誰かが頭を下げる姿を目にします。SNSが普及したこの時代、小さなイベントで起きたことや一部週刊誌で報じられたことも、瞬く間に広く知れ渡るので、当事者は会見を開いて幕引きを図るしかなくなるのかもしれません。「謝罪」とは何のためのものか、それが今どう変質しているのか、平井住職の考えを聞きました。

他人の失敗をおおらかに受け流すことも大切

最近は、誰がどんな問題を起こしても、私たちが知るレベルで報道されるようになると、その後には謝罪の会見や声明がつきものになってきました。アマチュアスポーツの試合中の傷害事件や有名人の不倫など、謝罪会見が必要と思われない事柄でも、当事者がテレビカメラの前で謝罪する姿を見せます。

本来は当事者同士でやりとりすべきものも、必要以上に「世の中」の方を向いて見えるのは、向かざるを得ない環境だからでしょうか。

インターネット上では、犯罪ではないけれど不道徳とされるようなことに対しても、大勢が苛烈な言葉でバッシングする流れが生まれがち。それを怖いと思って気にするのはごく自然な感情かもしれません。「ツッコまれたくない」「叩かれたくない」というムードは、ありとあらゆる仕事のさまざまな階層に蔓延している気がします。

ありふれた言い方になりますが、もう少しおおらかであってもいいのになと感じます。他人の失敗や間違いを責めすぎないで「人間だからそんなこともある」と受け流すこともしなければ、世の中はどんどん生きづらくなるばかりです。

「天に唾(つば)する」という言葉もあります。人に害をなそうとすると、結局は自分に返ってくるということを、忘れないようにしたいものです。

人に謝罪の心を見せるなら迷ってはいけない

世の中が謝罪を過度に求めがちになると、バッシングを受けて謝罪する人の方も、本心では後悔も反省もしないまま謝罪会見などを開くことになったりするので、会見でそうした本音が露呈して新たな火種になることもあります。

謝罪を何のためにするのかといえば、本来は相手に許してもらうためです。悪いと思っていると伝えて、相手から許すという行動を引き出したい。ある種、“口説く”わけですから、恋愛と少し似ているかもしれません。

告白のシチュエーションやセリフを検討したり、相手が喜びそうなデートプランを考えたりするように、謝罪にも演出はつきものです。例えば、毎日のように手紙を届けたり、雨の中を何時間も待ったり、お詫びの品を用意したり。

謝罪会見もしかりです。とりあえず謝って区切りにしたいという動機で謝罪会見を開くとき、「ここまで叩かれなきゃいけないことかな?」と本心では不満があったとしてもそれを見せてはいけません。

会見は社会に見せるために開くのですから、多くの人が納得できるストーリーを組み立てて、それを演じるのが理に適っています。揺れる気持ちがあっても、謝るときには「自分が悪くて、どうしても謝りたいのだ」と自分に言い聞かせることも肝要です。

いまや「謝罪」がキャンペーンに使われる時代。BiSH、BiS、GANG PARADE、EMPiREなどのアイドルグループが所属する株式会社WACKが、6月24~28日に渋谷を中心に全国で「謝罪本」を無料配布。「まだ何もしてませんが、先に謝罪しときます」がコンセプト。これが何の宣伝になるのかは不明だが、昨今連発される謝罪を皮肉って“先に謝る”というインパクトはそれなりにあった。

謝罪は問題の解決策ではない

人は、特に若いときは「本当の自分はこうこうで」と主張したくなることがあると思います。ですが、水が器によって形を変えるように、“自分”も元来、何にでも形を変えられるものです。

誰しも毎日、役割を演じています。私の場合でいえば、住職を演じ、夫を演じ、父親を演じ、そのどれもが本当の自分です。我にとらわれないことは、謝罪に限らず、いろんなことの解になると思います。

ただし、謝罪は事件や問題の解決策にはなりえないことは意識しておかなければいけません。事件や問題が起きたときに、それが二度と起きないようにする仕組みを作るのが解決策で、謝罪はそこへ至る途中の潤滑油のようなものです。

謝ることで心理的に、社会的にひとつの区切りがついたとしても、問題解決の道はまた別途、探っていくことになります。

謝るときはまず自分に謝る

謝罪は、そもそもどういうときにすべきでしょうか。禅には社会的な善悪を判断する考えはありません。

仏教には「戒」と「律」という規範があります。「戒」とは自分自身への戒めや心構えのこと。「律」は集団で生活する上の規則。「律」は、日本において自動車は左側通行というような、合理的に生活していくためのルールであって、集団に属している限りは守るしかありません。一般に「戒律」という言葉もありますが、戒と律は明確に性質が異なります。

戒の中でも特によく知られているのが「五戒(ごかい)」です。不殺生(ふせっしょう)・不偸盗(ふちゅうとう)・不邪婬(ふじゃいん)・不妄語(ふもうご)・不飲酒(ふおんじゅ)。しかし、実はこれは現実的には守ることができないものだと思います。

不殺生とはいっても、人は何かを殺して食べなければ生きていけません。精進料理だけを口にしていたとしても、植物の命は摘み取ることになります。不妄語(嘘をつかない)も難しいですね。人のためを思って、真実とは違うことを口にする優しさもままあると思います。

律は破れば罰もありますが、戒を破ってしまったときは自分に謝るしかありません。悪いことをしたと反省して、次はしないと心に誓う。その後、社会に謝るかどうかは自分で決めることです。

他人の目よりも自戒を大切に

こんなモノを街中で見たことがあるでしょうか。人の目のイラストに「誰か見てるぞ」といったキャッチコピーを組み合わせたステッカー。

私はあれを見ると、なんともいえない気持ちになります。他人に目撃されてしまう可能性を訴えて、犯罪を抑止する意図は理解できますし、一定の効果もありそうですが、そういう伝え方をしなければいけない悲しさを感じます。

「誰かが見ている」よりも、皆さんには「天知る地知る我知る人知る」とか「お天道様が見ている」といった言葉を覚えていてもらえたらと思います。他人にバレなかったとしても、後ろめたいと思うこと、後で胸が痛むようなことはしない。それが道徳であり自戒です。

自戒を上位に置いて行動していると、社会規範とズレることもときにありえると思います。自分の信念に従って、どうしてもこの行動を取るべきだと思うけど、その行為が犯罪であったり社会的には「悪」とされたりというような。

もちろん、犯罪自体は決して肯定されるべきではありません。ですが、信念と覚悟を持って行動し、甘んじて投獄されるなり社会から批判を浴びるなりするのであれば、そうした生き方もあっていいと私は思います。

メディアを通して謝罪会見を目にするとき、この人は誰に何を謝っているのだろうと疑問に思うことが多々あります。自分がどこを向いて行動をし、何を信念に掲げて自分の人生を歩むのか。謝罪より先に、本当は考えるべきことがあるのかもしれません。