写真/片桐 圭

社会

第5回:最近、自分にとらわれていませんか?

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禅宗には、悟りを開くための修業に「公案(こうあん)」というものがある。いわゆる禅問答だ。今回は平井住職に、この公案の中から梅雨の季節をイメージさせる「雨滴声」という言葉を選んでいただいた。

◇今回の禅語は…
「雨滴声」うてきせい

自分の思いにとらわれすぎない

中国・宋の圜悟克勤(えんごこくごん)という禅僧が数ある公案から、100則を選んでまとめた「碧巌録(へきがんろく)」という本があります。今回は、この中から梅雨の季節にふさわしい、46則の「雨滴声(うてきせい)」という禅語のお話をします。

宗の時代、師匠と僧の間で以下のような禅問答がありました。
「鏡清、僧に問う、門外(もんげ)これなんの声ぞ。僧いわく、雨滴声。清いわく、衆生顚倒(しゅじょうてんどう)し、己に迷うて物を逐う」

わかりやすくいえば、鏡清というお師匠が僧に「外で聞こえる音は何かな?」と尋ねたところ、僧が「雨だれの音です」と答えたので、鏡清は「お前、雨だれにとらわれたな」と言った、という話です。僧が「ぽつりぽつり」という音だけを聞いて、「雨だれの音だ」と勝手に決めつけてしまったので、お師匠である鏡清が、僧が自分の客観的想念にとらわれていることを指摘したのです。

ここでは、ただ「ぽつりぽつり」という音がする、という事実として主観も客観もなく受け止めるべきだということを言っています。つまり自分の思いにとらわれすぎるな、ということ。自分が見たり、聞いたり、感じたことはすべて自分の中のフィルターを通ったものであることを忘れてはいけないということです。人は恐ろしいほど、自分が見たいもの、聞きたいことしか認識できません。それゆえ、曲がった見方や間違ったとらえ方をしてしまうことが往々にしてあります。これを、仏教では「衆生顚倒(しゅじょうてんどう)」といいます。

全生庵

人間につきまとう「衆生顚倒」

先の禅問答に出てきた「衆生顚倒」の「衆生」とは生きとし生けるもの、「顚倒」とはひっくり返ることを意味しています。つまり人間はどうしても物事を、ひっくり返った、悪い見方で見てしまうということです。その中でも代表的な4つの見方が「常我楽浄(じょうがらくじょう)」です。

「常」とは、一度得た物が自分の物であり続けると思うこと。しかし世の中は無常です。体も成長しては老い、地位も名誉も美しさもいつかはなくなるもの。手に入れたと思っても、実際には一瞬自分のところにあるだけなのです。

「我」とは、私のこと。そもそも「私」とはなんでしょうか。他人から見た私や自分が思う私、仕事で見せる私やプライベートで見せる私。どれも本当であって、本当ではありません。無我、つまり主観にも客観にもとらわれないのがあるべき姿。主観にとらわれているがゆえに、「私にこんな仕事は合わない」とか「なんでこんな仕事をしなきゃならないんだ」と苦しむのです。

「楽」とは、思い通りになること。しかし人生は、何事も思った通りにはならないものです。思い通りにならず苦しむのですから、初めから思い通りにならないものだと思っておけばよいのです。

「浄」とは、きよらかであること。しかし、仏教の考えに浄不浄はありません。美しくありたいと願うことも主観であり、美醜を区別すること自体が主観なのです。人間はひっくり返った見方をしているがゆえに苦しんでいることがわかります。

答えを求めるのではなく、考えることの大切さ

克勤禅師が心血を注いで作った「碧巌録」は、のちの弟子の僧にすべて焼き払われてしまいます。そもそも公案とは「考える」ことが目的であって、答えはあるようでないもの。碧巌録は修業僧がじっくりと考える前に導いて惑わせてしまうというのです。

室町時代に能楽を大成した観阿弥の子供である世阿弥が「風姿花伝」という本を残しました。何才までに、何を習得すべきか、ということが詳細に書かれた能の理論書です。これもある意味で、後世に能を学ぶ者を惑わせる書になるのかもしれません。世にあふれるハウツー本なども同様でしょう。現代人は、試験を受けては正解を求めることのくり返しで育ってきました。だからすぐに答えを求めようとしますが、世の中には答えの出ないことがたくさんあります。それが当たり前なのに、答えがわからないと不安で仕方ないのです。

禅宗の公案は、「答えを求めようと考えること自体が重要なのであり、それが人生である、だから自分の頭でしっかり悩みなさい」と、教えてくれています。

全生庵

人はネガティブな生き物である

人は、いつも不安を抱えて生きています。そして、その不安を解消しようとします。しかし簡単に解消できるぐらいなら、初めから不安など生じません。よく「私はポジティブな人間だから…」と言う人がいますが、そういう人ほどとてもネガティブなのかもしれません。

不安などないように見えても、皆多かれ少なかれ悩みはあるもの。順調な上場企業の社長でも、毎日の資金繰りへの不安で夜中に目が覚めしまうという人が多くいます。不安は消せないのですから、捨てればいいのです。できることは一生懸命考えて悩み、できないことがあれば仕方ないと諦める。この加減が大切です。捨てても不安はまた訪れます。そしたらまた捨てる。人生はこのくり返しです。しょうがないな、命までとられるわけじゃないと考えれば、ふっと楽になれるものです。

今回選んだ「雨滴声」という言葉から、皆さんは何を感じたでしょうか。自分に見えているものがすべてではないし、主観や客観にとらわれすぎると間違ったものの見方をしてしまうことがあるよ、という教えでした。世の中には多くの不安や悩みがあふれています。それは間違ったものの見方からくることが多くあります。「一寸座れば一寸忘れる」という言葉があるように、坐禅をして、それらの不安を少しの間だけでも忘れてみてはいかがでしょう。

全生庵までのアクセス

住所:台東区谷中5-4-7

最寄り駅:JR・京成電鉄 日暮里駅より徒歩10分/地下鉄千代田線 千駄木駅(団子坂下出口より徒歩5分)

 

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