皆さんにとって「働く」とは、何でしょうか? 「人生そのもの」と答える人もいれば、「生活のお金を稼ぐための労働」と考える人もいるでしょう。禅の考えを基に、「働くこと」は人にとってどんなことなのか考えてみましょう。
禅僧は仕事という感覚がない!?
禅宗では、僧がする労務のことを「作務(さむ)」といい、衣食住すべての行いを指します。坐禅はもちろんのこと、掃除や料理など、僧としてやらなければならない労働のほか、食事や睡眠などの生きるために必要なことすべても作務に入ります。
住職の仕事は、いわば寺の”管理人”のようなものなので、同じことを繰り返していく日々。私も修行を始めたばかりの頃は、なぜこんなことをしなければならないのかと疑問に思ったりもしました。でもそれも、続けていくうちに当たり前となり、毎日の生活の一部となっていきました。いまや私にとって作務を仕事だと思う感覚はなく、特別な意味を持つものでもありません。
では、寺の住職などではない、一般の仕事に就かれている人にとっての「働く」とは何でしょうか? 聞くと皆さん、「人生」とか「生き甲斐」とか答えます。自分がやりたい仕事をしている人にとっては、そうなるでしょう。一方、特にやりたい仕事でもないけれども、生活費を稼ぐために働く人たちもいるでしょう。その人たちは、いつまでたってもやりたい仕事が見つからないかもしれません。でも、それでもいいと思うのです。私もいまだに住職という仕事がやりたい仕事かどうかわかりません(笑)。
ただありがたいのが、普通のお寺は寺同士や檀家さんとの付き合いしかない場合が多いですが、全生庵は、坐禅や山岡鉄舟先生、三遊亭円朝といった”引き出し”があるおかげで、いろんな人とお付き合いできる。縁あって、2016年から日本大学で坐禅を教えることにもなりました。これまでと違う舞台でやることについては、少しドキドキしていますね。
大切なのは、自分が選択したことについて後悔しないこと。「こんなはずじゃなかった」「もっとほかにやりたい仕事があるのに」と、今の自分を否定することは、とても不幸な働き方だと思います。
臨済宗国泰寺派全生庵 住職 平井正修
果たして”やりたい仕事”であるべきか
人は”やらされている感”があると、大変だと思うことを削るようになります。ところが、自分でやろうと思った瞬間に、自らできることを探すようになる。結果が変わってきますし、本人にとってはその方がよほどいいですが、それには心の転換が必要です。
やりたいことを探すにしても、それは自分の心が感じるもの、内側から出てくるもの。五感を研ぎ澄ましておくことは必要ですが、やみくもに外側に探しに行っても意味がない。そういう探し方をすると今やっていることが絶対におろそかになりますから。
私は、まずは一生懸命やることだと思います。何かやれば必ず結果が出ますよね? 目の前の仕事に向き合い続けることで少しずつ変わっていくことは出てくる。一つのことができたら、次にやることが見える。それをやるためには一つ上のステージに行かなければいけない……というように、それまでできなかったことができるようになると、人は努力し出します。そうして数珠つなぎのように広がっていく。
やりたいことというものは、その先にあるものだと思います。自分が立っている位置から遠く離れた位置に見つけても、それはつながっていないのです。たとえその先にやりたいことが見つからなかったとしても、今を一生懸命やれているのであればそれでいいと私は思います。生きているのは”今”なので。
やりたい仕事の結果が評価されるとは限らない
人は何にでも意味を見出そうとしますが、働くことに関して、あまり”やりたいこと”にとらわれない方がいいと思います。やりたい仕事を頑張ったことによる結果が評価されるとも限りませんし、逆に評価が下がることだってある。大体が自己満足です。他人から見れば、それがやりたいことかどうかなんてどっちでもいいのですから。
人に評価されたいと思ったら、なりふり構わず評価されることをすればいいと思う。仕事の内容や働き方なんて関係ないでしょう。出世するのに一番いい方法は、自分を無くすことですし。逆に、やりたい仕事をしていることで、他人の評価に対して「それがどうした」と思えたとしたら、とても強いといえるかもしれませんね。
考え方は人それぞれですが、突き詰めれば人間の「生」とは、生きることだけ。食べて、寝て、仕事して……といったことはすべて”生きること”そのものです。どれが大事で、どれが大事ではないというのはありません。そう考えると、”どう働くか”を考えることは、”どう生きるか”を考えることにつながっていくのだと思います。気負わず、ぜひ目の前のことに一生懸命取り組んでください。
“甲斐”を得るためには働かねばならない
金が余るほどあれば働かなくて済むと考える人もいるかもしれないが、それは僕の辞書にはないし、うらやましいとも思わない。なぜなら働くことは、人間にとってまさに生活そのものだから。僕の場合、仕事そのものを生きがいにするために、経済的な犠牲も払っているが、それでもとても満足している。
やりたいことが仕事になっている人は、ごくわずかだ。組織にいれば人事異動が普通にあって、いつも同じ仕事に就けるとは限らない。そこで、やりたくないことだからと手を抜いて過ごすのであれば、一生やりがいもできないだろうし、生活の糧を得るだけの”労働”になる。働くことに生きがいを求めるのならば、住職が言うように目の前の仕事に一生懸命向き合い、評価されるべきだろう。
ただ、仕事ではなく、趣味やプライベートに”甲斐”を見つける人もいる。そのために労働するのならば、それはそれでひとつの道だと思う。いずれにしろ、自らが何を求めて働くのかを知ることが必要だ。