クリスチャン・ボルタンスキーの壮大な展示で死後の世界を旅する

2019.8.22

社会

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クリスチャン・ボルタンスキーの壮大な展示で死後の世界を旅する

“空間のアーティスト”を自称するクリスチャン・ボルタンスキーは集団と個人の記憶、宗教や死をテーマとして作品を発表してきた、フランスを代表する現代アーティストだ。父親がユダヤ系であったことから、幼い頃に聞いたホロコーストの記憶を作品の原点として、インスタレーション(展示空間を含めて作品とみなす現代芸術の表現手法)を中心に数々の作品を生み出してきた。

 

うず高く積まれた古着の山、壁一面に積み重ねられ、モノクロの顔写真が貼られた無数の錆びた箱、不気味に引き伸ばされた子どもたちの肖像画……。直接的には示唆されないものの、その背後に大量殺戮を想起させる作風は、観る者の感情を強く揺さぶるものがある。

 

日本で過去最大規模の回顧展である「クリスチャン・ボルタンスキー ―Lifetime」(国立新美術館)では、初期の映像作品から、音や光を取り入れた2000年代の作品まで代表作を鑑賞できる(~2019年9月2日)。展覧会の構成を通して、ボルタンスキーの作品が私たちに訴えるものは何なのかを考えてみたい。

個人の物語は暴力によって奪われる

来場者は最初から、初期に作られたグロテスクな映像作品と向き合うことになる。ひたすら咳をしながら血を吐く男。廃墟のような冷たい部屋で、人形を舐め続ける男。彼の作品に初めて触れる人は、濃厚な死の気配が漂う衝撃的な短編映像で洗礼を受けることになるが、これはまだ序の口にすぎず、その先には展覧会の大きな一角を担う、ボルタンスキーの代名詞ともいえる作品のひとつ<モニュメント>のシリーズが待ち受けている。

クリスチャン・ボルタンスキー ̶ Lifetime 《モニュメント》
《モニュメント》 1986 / 写真、フレーム、ソケット、電球、電気コード / 作家蔵
© Christian Boltanski / ADAGP, Paris, 2019, Photo © The Israel Museum, Jerusalem by Elie Posner

<モニュメント>シリーズは、子どもたちのモノクロの写真を引き伸ばし、祭壇のようなほの暗い電飾を施した作品だ。写っている子どもたちは実はごく普通の子どもたちなのだが、鑑賞者には明らかに死のイメージ、しかも非業の死の印象を与えるのが興味深い。

<モニュメント>シリーズが展示される薄暗い展示室は、さながら死者を弔う空間に変わってしまったかのようだ。写真によって切り取られた無数の人々の顔は、イコンのように装飾された死を想起させる装置の中で、無個性的なものとして現れている。そこには個人の名前も物語もない。ただあったはずものが奪われたという不在性が際立つばかりだ。

私たちは一人ひとりの物語を持っている。自らが生きた物語は、どんなに平凡で典型的なものであっても唯一無二のものであり、自分が自分であるというアイデンティティを保証するものだ。ボルタンスキーは、個人にとっては特別なその物語が、暴力によって奪われ匿名化しまうことの残酷さと、痛ましさを繰り返し表現してきた作家といえる。

クリスチャン・ボルタンスキー ̶ Lifetime
クリスチャン・ボルタンスキー © Christian Boltanski / ADAGP, Paris, 2019, Photo by Didier Plowy
1944年にパリで生まれる。1968年に短編映画を発表、1972年にはドイツのカッセルで開かれた国際現代美術展のドクメンタに参加して以降、世界各地で作品を発表する。1990年代以降は大規模なインスタレーションを数多く手がけるようになる。「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」(新潟)には第1 回から参加、2010年に「瀬戸内国際芸術祭」(香川)が開かれた折には《心臓音のアーカイブ》を豊島に開館。2001年にはドイツでカイザーリング賞を、2006年には高松宮殿下記念世界文化賞を受賞。現代のフランスを代表する作家として知られる。

作品を通して「死」を自分の身に引き受けてみる

死者を祀る聖堂のような展示室を後にし、メキシコの骸骨を思わせる幽霊たちの影絵が舞う通路を抜けると、展覧会会場で最も広い空間に出る。天井からはたくさんの人々の顔のイメージが吊るされ、中央には真っ黒な服が無数に積み上げられた作品《ぼた山》がそびえている。その周りに配置されているのが、頭の部分が電灯になっている黒いコートを着た簡素な木製の人形《発言する》だ。人形の前に立つと、そこから男女さまざまな声で問いが発せられる。

「教えて、あっという間だった?」

最初は何を言っているのだろうと不思議に思うが、続く問いかけには思わずぎくりとさせられる。

「教えて、苦しまなかった?」

「ねえ、お母さんを残していった?」

……

彼らはどうやら、死者に向かって問いかけているようなのだ。この場合、死者とはもちろん私たちのことだ。私たちも祀られていた子どもたちと同様、名前を剥ぎ取られ、死んでいった無力な存在のひとつにすぎないというのである。

そんな大胆な仕掛けに苦笑しつつも、一つひとつ人形をたどりながら彼らの問いかけに耳を傾けてみる。そして「死」とはどんなものだろう、と思いをめぐらせてみる。そして過去の他者のものだった死をいざ自分の身に引き受けてみると、ひたすら不気味な問いを発するこれらの人形たちが実は、死後戸惑い、さまよう魂たちの導き手でもあることに気づかされる。彼らは、さまよう私たち一人ひとりに問いかけることによって、匿名性からその物語を回復させようとしているのではないか。

クリスチャン・ボルタンスキー ̶ Lifetime 《発言する》
《発言する》《ぼた山》が展示されている展示室。
提供:朝日新聞社/撮影:山本倫子
「クリスチャン・ボルタンスキー ―Lifetime」展 2019年 国立新美術館展示風景

忘れられてしまうことの残酷さ

ボルタンスキーは2016年に東京都庭園美術館で個展「アニミタス-さざめく亡霊たち」を開催している。その際、本館である旧朝香宮邸に合わせて制作された、声による展示も非常に興味深かった。

洋館に仕掛けられたスピーカーは、来場者の気配を察すると作動し、誰もいないはずのアール・デコの装飾の美しい大広間や玄関ホールの空間に老若男女さまざまな声が流れる仕組みになっていた。

「そのネックレス、本当によくお似合い」

「そう、毎回、違う人たちが来ていました」

それは一見、往年の華やかな貴族の館で繰り広げられた、亡霊たちのたわいないやりとりにも思える。しかし耳を傾けているうちに、声たちが語る言葉にはある不穏さが潜んでいることに来場者は気づいていく。

「お母さん、寒いよ」

「布は、水を吸うと、本当に重いから」

一体これらの声の主たちは、どのような死を迎えたのだろう? その疑念はあるとき確信めいたものになる。

「ずいぶんとねえ、苦しんだんですよ、知っているでしょう」

「ただ、真っ黒な緞帳(どんちょう)が下から素早くのぼってくるのが見えて、ああ、終わりなんだなって思ったんです」

あるとき、何らかの原因によって非業な死を遂げた人たち。そこには確かに語られるべき一人ひとりの物語があったはずだった。けれどもそれは無残にも奪われてしまい、今や誰のものともわからない記憶の断片しか残されていない。今も耳から離れない2つの声がある。

「私のこと、覚えていますか?」

「きみのこと、忘れないよ」

この「洋館と亡霊」というテーマはあまりにはまりすぎていたにしても、“忘れられてしまうことの残酷さ”というテーマは、以前からボルタンスキーの作品を貫いてきた。ホロコーストの記憶が作品の原点であるとしても、自分はホロコースの以降の時代のアーティストなのだと彼は繰り返し述べている。

悲惨な歴史もいつかは時の流れに埋もれてしまう。しかし現代もなおホロコーストのような大量殺戮は世界各地で繰り返されている。では私たちはどのようにしたら、その残酷さから逃れることができるのだろう?

「死」が風化することを止める方法

作品《発言する》が展示されていた空間では、《アニミタス(白)》という映像作品も上映されていた。カナダ北部の荒涼とした雪原に突き立てられた棒に、吊るされた風鈴が鳴り響く様子を映した作品だ。

クリスチャン・ボルタンスキー ̶ Lifetime 《アニミタス(白)》
《アニミタス(白)》 2017 / ビデオプロジェクション(HD、10時間36秒)、シルクペーパーの玉 / 作家蔵
© Christian Boltanski / ADAGP, Paris, 2019, Courtesy Power Station of Art, Shanghai, Photo by Jiang Wenyi

この<アニミタス>という作品はシリーズになっていて、第1作は南米チリを舞台に制作された。チリのアタカマ砂漠に数百の風鈴を立て、その配置はボルタンスキーが生まれた1944年9月6日の星の配置を再現しているというものだ。

高地で空気が乾燥しているために、星の観察に適し、各国の天文台があるアタカマ砂漠は、かつてチリのピノチェト政権下で多くの人々が政治犯として殺され、埋められた場所でもあった。乾いた広大な大地で日の出から日没まで、風に揺れながら澄んだ音を奏でる無数の風鈴たちは、今ではおそらくもう残っていないだろうとボルタンスキーは語っている。この作品は、今や映像の中でしか見ることはできない。

ボルタンスキーはこれまで、大量殺戮の暴力性や匿名性、痛ましさを表現してきたが、その一方で、どんな凄惨な死もやがては時の流れの中で風化してしまうということもまた、彼の根幹をなすテーマのひとつだ。

<アニミタス>の流れをくむ作品の第2作は、日本の瀬戸内の豊島(てしま、香川県)に、恒久展示《ささやきの森》として制作された。第1作との違いは、この作品は料金を払えば用意された短冊に自分の大切な人の名前を書いて、風鈴に吊るすことができることだ。それによってこの作品は、ボルタンスキー自身も述べているように、宗教的な巡礼地のような意味合いを持つことになった。

森の中で誰かの大切な人の名前が無数に風にそよぎ、透明な音を奏でている。人が自分にとって特別な、懐かしい記憶を思い出させる誰かの名前を書くとき、そこには祈りに似た想いが必ず介在するはずだ。たとえ風鈴の音のように儚くささやかで、いずれは消えてしまうものであったとしても、そうした特別な祈りや想いだけが、私たちを忘却の残酷さから救ってくれるものなのではないだろうか。

「死」を体験するアート

映像やインスタレーションによる作品であることも手伝い、ボルタンスキーは会場や作品が設置される場所によって、演出や構成を変更してきた。近年は会場に合わせて、作品そのものも制作している。

では、今回の国立新美術館という場はどのように演出されたのだろうか。

まず来場者は凄惨な死の気配が漂う初期の映像作品に触れ、それから《モニュメント》シリーズに代表される死者を祀る異空間に入る。幽霊たちの廊下を抜け、《発言する》によって、私たち自身ももはやこの世のものではないことを知らされる。

そして魂は映像作品を通してカナダやパタゴニアなどの最果ての巡礼地を巡り、やがて《白いモニュメント、来世》(本展のために制作された作品)へと向かう旅路をたどる。この一種の臨死体験ともいえる壮大な展示構成は、展覧会により五感を使った体験が求められるようになった現在においても、相当にユニークなものだったのではないか。

「クリスチャン・ボルタンスキー ―Lifetime」展は9月2日まで、国立新美術館で開催中。また、エスパス ルイ・ヴィトン東京で、11月13日まで「Christian Boltanski - Animitas Ⅱ」も開催されている。こちらは2つの映像作品《アニミタス(ささやきの森)》と《アニミタス(死せる母たち)》が展示される。アートを通して、私たちの個人の/集団の記憶と物語のあり方、そして死後の世界をも旅することができるボルタンスキーの展覧会、ぜひ足を運んでみていただきたい。

クリスチャン・ボルタンスキー―Lifetime

開催中~2019年9月2日(月)

国立新美術館 企画展示室2E(東京・六本木)
休館日:火
開館時間:10時〜18時(毎週金・土は21時まで、入場は閉館の30分前まで)
観覧料:1600円(一般)

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Christian Boltanski - Animitas Ⅱ

開催中〜2019年11月13日(水)

エスパス ルイ・ヴィトン東京 ルイ・ヴィトン表参道ビル 7F
開館時間:12時〜20時(臨時休業、開館時間の変更はサイトで告知)

»公式サイトはこちら