急がば坐れ!~全生庵便り

不安と共に生きる術 覚悟ができれば怖くない

2020.6.29

社会

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不安と共に生きる術 覚悟ができれば怖くない

2005年6月、スタンフォード大の卒業式で講演するスティーブ・ジョブズ 写真:AP/アフロ

全生庵(東京・谷中)の平井住職から禅の心得を学びながら、仕事や日々の生活をより良くおくるための術を探る本連載。今回のテーマは「不安や恐怖との向き合い方」です。 緊急事態宣言が明けても、新型コロナウイルスに関する報道は続いており、今もなお見えないウイルスへの恐怖と感染の不安が募ります。新型コロナウイルスのいない日常は過去のものとされ、今後はwithコロナの時代をどう生きるかを考えなければなりません。そこには見えざる不安と恐怖にどう向き合うべきか、も含まれます。平井住職と共に考えました。

人は“わからない”ものに不安を感じる

多くのビジネスが大変な時期だと思いますが、今はお寺も同様です。これまでは法要や葬儀、坐禅会、会社の研修などがありましたが、ほとんどがない状況です。お寺へ人が集まってくれる、もしくは人が集まるところへ私たちが出向くことで収入を得ていたわけですが、今は「集まるな」ということになっているわけで。なんとも困りました。

今回の一連のコロナ禍は、世論を見るにつけ、多くの人が感染症に対して不安になり、恐れているのを感じます。個人的にはちょっと感情的すぎなのではという思いもありますが。

多くの人が感じている不安の正体とは何なのでしょうか。それは“わからない”ということかもしれません。テレビやニュースを見ていると新型コロナウイルスについてたくさんの情報が入ってきますが、ほとんどの人は感染者がどうなるのかを目の当たりにしたことがありません。急変して突然亡くなる人もいますが、その原因も根本的なところはよくわからないということです。

「死」は“わからない”の最たるもの。生きている人は誰も経験したことがないものですから、恐れるのは当然といえば当然です。

遠ざけられる「老・病・死」

仏教では不安をはじめ、思い通りにならずに精神や肉体を悩ませる状態を“苦”と呼びます。根本的な“苦”は「生・老・病・死」の「四苦」に表され、「生」は「生きる」または「生まれる」と解釈します。残りの「老・病・死」は「老いること」「病に罹ること」、そして「死」です。どれも、生きていく上で避けては通れません。

特に、今は昔と比べて「老・病・死」は遠ざけられています。例えば、高齢になると介護施設に入り、子どもとは別に暮らす方も多い。病気になれば病院に入院し、亡くなるときも病院です。

核家族化が進むがゆえに、「老・病・死」というものに直面する機会が失われました。かつては身近な体験だったのですが、遠ざけられた結果、老いや病気で弱ること、ある日死を迎えることというのは、概念としてしか日常に存在しなくなりました。

経験としてわからないこと、それがコロナ禍における不安と恐怖にもつながっていると感じます。

生きていることは当たり前ではない

今は「人生100年時代」ともいわれており、長生きするのが当たり前になっています。でも、コロナ禍が浮き彫りにしたように、それは間違っています。

例えば高齢者は死に近く、若者や生まれたばかりの赤ん坊は死から遠いのかというと、そういうわけではありません。

私自身の経験で言うと、大学の時の友人が突然交通事故で亡くなったり、一つ年上でお世話になっていた方が夜普通に寝て、朝になったら亡くなっていたりということがありました。そういうふうに、身近に死を感じると、生きていることは当たり前ではないと意識します。夜寝たら、翌日の朝が必ず来るわけではないのです。

禅を学んでいたスティーブ・ジョブズさんは、2005年にスタンフォード大で行ったスピーチで、「私は毎朝、鏡に映る自分に問いかけるようにしているのです。『もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか』と」と言っています。これは禅の思想でもあり、「死」を意識することで一日一日をしっかり生きるべきという意味です。

不安と共に生きる覚悟

死を意識して、今日一日をしっかり生きたところで不安が消えることはありません。なぜなら不安は見えますが、安心は見えないからです。さらに言うと安心したいと思う時点で不安なのです。

何か不安が解消して安心できたとしても、次の瞬間には違う不安が心を覆うので、安心が続く状態はありません。安心したいと思うことは幻想なのです。

結局、人間は不安と共に生きるしかないと思います。“withコロナ”とは、“with不安”でもあります。不安が無くなることはない、そう思えば不安と共に生きるという覚悟ができると思います。

覚悟があれば、「コロナに罹ったらどうしよう、死ぬかもしれない」という不安に対しても「コロナじゃなくても、この先いろんな病気になる」という風にメンタルも強くなるでしょう。もちろん、全く平気になるというわけではないでしょうが、“心の抗体”はできると思います。

日々、我々は新しくなっていかなければならない

「いつになったら以前の生活のように戻れるのか」という話もありますが、そもそもコロナ禍以前と比べても仕方がないと思います。

禅語に「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」という言葉があります。これは優劣や損得、是非といった価値にとらわれず、一日一日をありのままに生きるという境地を意味しています。

また、中国の古典「四書五経」の『大学』に出てくる言葉に「苟(まこと)に日(ひび)に新たに、日々(ひびひび)に新たにして、又た日(ひび)に新たなり」という言葉もあります。これは「昨日より今日、今日より明日の言動が新しく良くなるように修養に心がける」という意味です。

一日一日は新しい一日ですが、それは過去の蓄積であり、昨日までの結果として今日があります。人間も数カ月でほとんどの細胞が入れ替わるといわれ、毎日、物理的にも少しずつ新しくなっています。

時も体も刷新されていくのに、唯一新しくならないのが私たちの心です。物事を見たいようにしか見ず、不安や恐怖にとらわれて、コロナ禍においては「自粛警察」と呼ばれるような存在も生まれています。

そういう意味では私たちはありのままに生きるために日々、新しくなっていかなければいけないと切実に感じています。

活動がしにくいという状況のなか、今はじっとしているときなのかな、とも思うこともありますが、じっとしていると耐えきれなくなって潰れてしまうところもありますので、難しいところです。

今後、どういうふうになっていくのか――。新型コロナウイルスをはじめ、世の中の行く末をしっかりと見ていこうと思っています。