ニューノーマルの先にある“監視社会” ポストコロナの世界経済 

2020.6.27

経済

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ニューノーマルの先にある“監視社会” ポストコロナの世界経済 

新型コロナウイルスによって3万4000人以上の犠牲者(6月24日、厚労省)が出たイタリア。マスク文化はなかったが今では意識も変容 写真:ロイター/アフロ

ポストコロナ禍の国内・世界経済はどうなるのか。コロナ禍がいまだ終息したとは言えない現状で予測することは難しい。だが、明確に断言できるのは、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大を契機に、国内・世界経済は、今後「伝染病」という新たなリスクを織り込んだ「常に緊張した社会情勢」を前提に活動していかざるを得ないということであろう。

国内・世界経済の変容は避けられない

そもそも新型コロナウイルスは、目に見えない恐怖であり、人種・国の区別なく広がる。その意味で無差別な殺人兵器であり、“一種の形を変えた戦争”と言い換えてもいい。その新型兵器が、グローバルかつ複雑に絡み合った世界経済を痛撃した格好だ。

その処方箋は、一時的にグローバルに広がったサプライチェーンを断ち、地域間や国内外の人・モノ・カネの移動を断つという、江戸時代のような鎖国状態を敷かざるをえなかった。「ロックダウン」や世界的な「保護主義」の台頭は、まさに経済を犠牲にしても守るべき「命」の防波堤ということになる。

幸いなことに、この処方箋は現状を見る限り、わが国をはじめ先進国では功を奏したように見える。「経済封鎖に近い状況を断行することで、医療崩壊を防ぎつつ“コロナ対応の時間を買った”政策は、結果的に経済の再開を早め、最終的なトータルコストを安くできたと思う」(経済産業省幹部)ということはその通りだろう。

半面、スウェーデンの行動規制を伴わない「集団免疫の取得戦略」は、現状で見る限り、効果を発揮していないように思える。

※AFPによると、スウェーデンの人口10万人あたりの死者数52人(6月24日現在)は世界で5番目に多い

いずれにしても、新型コロナウイルス後の国内・世界経済は、変容することは避けられない。経済の基本は人の活動だ。国内GDP(国内総生産)の約6割は、個人消費によって占められている。そこが行動の制約と事業会社の営業自粛で止まれば、経済成長率が暴落することは自明の理だ。

感染拡大が一定程度静まったとしても、ウイルスが消滅することは考えにくく、営業自粛の解除に伴い第2波、第3波の発生を危惧しなければならないジレンマに陥る。人と人が直接接触する従来の経済活動の在り方そのものを見直さなければならない可能性も生じる。

羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く

巷間言われている「ニューノーマル(新常態)」とは、そうした人と人の関係性が、不可逆的に新たな態勢に移行するということだ。コロナ禍を契機に、自宅での仕事やテレワークが多用され、つれてZoomなどのデジタルツールを介したビジネスシーンが多くなっている。ただし、これらビジネス上のニューノーマルが、新型コロナウイルスの感染がほぼ終息した後、どの程度本格的に定着するのかは未知数だ。
ある調査によると、コロナ終息後にテレワークなどが定着する割合は1割程度ではないかと試算されている。「オンライン飲み会などもやってみたが、やはり直接会って話をするほうが断然いい。仕事の世界も同じではないか」(30代・会社員)という声は根強い。IT関連の企業に勤めているようなビジネス・パーソンは別であろうが、大多数の労働者は、コロナ後は元の状態に戻るのがベストと考えているようにみえる。

同様のことは、インターネットが広く普及し始めた1990年代後半から2000年代初頭にも見られた。当時、一部大企業が考えたのは本社の移転だった。「インターネットが普及すれば、わざわざ地価の高い東京に本社機能を置く必要はないのではないか。地方・近県に本社を移しても、インターネットで情報は入手できるし、営業も可能だ」というものだ。

しかし、実際に地方に本社機能を移しては、「本当に重要な情報、ここだけの話という“オフレコ情報”は東京に本社を置いていなければ入手は難しい。かつ、優秀な人材も採れない」ということで、ほとんどの企業が本社機能を東京に残した。当時、インターネットは“魔法の杖”のように思われていたが、デジタルツールはやはり代替でしかなかった。

また、今回の新型コロナウイルス感染拡大を機に、中国や東南アジアなどの新興国に展開した工場群などのグローバルサプライチェーンを見直し、国内回帰すべきとの意見も聞かれるが、この考えは「羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹く」ようなものだ。人口減少が続く日本において、海外の成長を取り込まなければ経済の持続性は維持できない。生産拠点等のサプライチェーンもしかりである。

だが、インターネットは、その後の社会活動における利活用をみればわかるように、いまや社会のインフラそのものになっている。相応の時間は要するが、デジタル化は本流となることは間違いない。後から歴史を振り返れば、新型コロナウイルス感染拡大が、社会のデジタル化を加速させた契機となったということになろう。

危機に乗じて出現する“監視社会”

一方、デジタル化の流れは、新たな問題も引き起こす。特に今回のコロナ禍は、伝染病ということもあり、社会全体が“緊張した疑心暗鬼”の状況に置かれた。

アメリカでは警察官による黒人の暴行死を引き金に、各地で暴動を伴う抗議デモが多発している。背景には根強い人種差別があることは間違いないが、これほど過激な暴動に発展した要因には、新型コロナウイルス感染拡大による、社会的な緊張状態がバイアスをかけているといっていい。

政治的な要請として、こうした伝染病の感染拡大リスクを最小限に抑えるために、これから世界各国の政府は個人情報の把握をより強化してくることになると予想される。

日本ではマイナンバーと預金口座の紐づけが行われようとしているが、さらに各自の健康状態などプライバシーに踏み込んだ情報がデジタル管理され、国家管理される傾向が強まると思われる。一種の“監視社会”の出現だ。

給付金の支払いをめぐる議論はその端的な表れだろう。「アメリカのようにソーシャル・セキュリティーナンバー(社会保障番号)が確立されていれば、給付金はより正確・迅速に配れた」という国会での議論はまさにその傾向を予感させる。

また、中国における国家統制力が強い国では、すでにその方向で政策誘導されているようでもある。国家レベルでのスマホ決済の普及とデジタル人民元の創設など、国民の財産はすべて国が瞬時に把握可能にするインフラも準備されつつある。

日本において、新型コロナウイルス感染拡大を食い止める名目で、政府による監視強化がなんら抵抗感なく受け入れられることになれば禍根を残しかねない。政府による監視社会の出現は、一面で国民の自由を脅かすリスクを内包している。香港における若者を中心とした抗議デモは、日本においても他山の石ということではないだろう。