香港の中心部にある終審法院

社会

香港デモ最終章へ 肉弾戦から紙の上での戦いに

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2019年の今ごろの香港は、「逃亡犯条例」改正案に端を発したデモが多発し、市街では催涙弾が飛び交っていた。しかし、2020年7月1日の「香港国家安全維持法(国安法)」が施行されるとデモは激減し、香港の街は様変わりした。林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官は9月1日に「香港には三権分立はない」と発言したほか、最高裁判所にあたる終審法院に在籍しているオーストラリア国籍の判事が国安法を理由に辞任。一連の法改正に伴う市民と行政との争いは“肉弾戦(=デモ)”から“紙の上(=法律)”へと主戦場が移っている。

「三権分立はない」と林鄭行政長官

香港にも日本と同様に教科書検定があり、その中には1992年に導入された「通識」という科目がある(2009年に必須科目化)。これは日本の科目でいえば「公民」に近いが、政治、経済、環境、社会などの問題についてグループで議論をさせる授業だ。

これまでは通識の教科書の中に「三権分立」という記述があり、その原則に従って個人の自由の権利などを保証すると書かれていたが、2020年から削除された。さらに、抗議デモに関する資料や写真も削除された代わりに、違法なデモをした場合は刑事責任を負うという文章が加えられた。

国安法第3条には「香港特別行政区の行政機関、立法機関、司法機関はこの法律及び他の関係法律の定めるところによって、国家の安全を害する行為と活動を効果的に防止し、阻止し、処罰しなければならない」と書かれている。つまり三権は「分立」ではなく「協力」するものという解釈を行い、法律を利用する形で分立を否定したともいえる。

これを受けて林鄭行政長官は9月1日の記者会見で「香港に三権分立はない」と発言。「香港では行政、立法、司法機関が相互に協力しバランスを取るが、この3つの機関は最終的には行政長官を通じて中国政府に責任を負う」と説明し、香港は「行政主導」のシステムであると明言した。また、中国政府の香港問題を担当する「国務院港澳事務弁公室」の報道官も「香港に三権分立は存在したことはない」という談話を発表し、香港政府をバックアップした。

林鄭行政長官 写真:香港政府新聞処

確かに香港はイギリスの植民地時代からの名残で“行政主導”の政治体制があったのは事実だ。また、イギリスと中国との返還交渉の過程では鄧小平が三権分立を否定し、その後、中国の政府高官も何度か三権分立を否定。香港基本法の理念としては三権分立を明示はしていないが、香港弁護士会は基本法第4章で三権の権限と機能を示しているという声明を出しており、三権分立は現実社会では存在し、運用されていると考えられてきた。

2014年には終審法院の首席裁判官が三権分立の原則が明示されているという見解を示していたほか、林鄭行政長官の発言の翌9月2日には香港弁護士会がその発言に懸念を示している。

これらの考えの相違は法治の根幹であることから、今後、大きな議論を呼ぶのは間違いない。

国際的な信用にかかわる外国人裁判官の辞職

香港政府は9月18日、終審法院のオーストラリア籍のジェームス・スピーゲルマン判事(74歳)が2年の任期を残して辞任したことを明らかにした。スピーゲルマン判事はポーランドに生まれ、その後オーストラリアに移り、シドニー大学で法律の学位を取得。1980年から弁護士として活動を開始した。その後、オーストラリアの法律改革の委員を務めるなどオーストラリアの法曹界で活躍。2013年に香港の終審法院の判事に就任し、2019年7月には期間を3年延長して2022年7月29日まで続けることが決まっていた。香港の前はフィジーの最高裁の判事を務めていたこともあるベテラン裁判官だ。

林鄭行政長官に辞任を申し出た際に理由を述べなかったが、オーストラリアの国営放送、ABCのインタビューには「国安法と司法の独立とその方向性について」と語っており、国安法が成立したことと、三権分立がないと香港政府が表明したことが関係していることを認めた。事実、同判事の辞任は林鄭行政長官が発言した翌日の9月2日だ。

香港の法制度を説明すると、イギリス統治下の影響から「コモン・ロー」の法体系をとる。コモン・ローの法体系を採用している国々は大英帝国領であったアメリカ、カナダ、オーストラリア、インドなどで、各国で積み上げられた判決は、コモン・ロー採用国すべてにおいて適用される。

判事はそれぞれの国の法律にもよるが、他国・地域の裁判所の判事を兼任することを認めている。それは上述のように採用国すべてに判例が適用されるからこそ成り立つものだ。コモン・ローにおける裁判官には法律家の間でも卓越した能力のある人のみがなれるため、非常に尊敬されている存在でもある。

香港の終審法院にはオーストラリア以外にもイギリスなど外国人裁判官がいるが、今後、外国人裁判官の“辞職ドミノ”が起これば、法体制の維持が危機にさらされるほか、コモン・ロー適用諸国から別の裁判官の採用も難しくなる可能性がある。そうなれば、三権分立の問題とのダブルパンチで香港の国際的な信用問題にかかわってくるだろう。これは、ある意味、国安法よりも深刻な問題になる可能性がある。

有名海外メディアすら排除も。マスコミへの取材制限

さらに香港警察は9月22日、「警察通例」(警察官の行動などを規定する内規)を改正し、メディアの定義を修正すると発表した。今後は、香港記者協会や香港撮影記者協会などが発行した会員証を認めず、香港政府の広報機関である「香港政府新聞処」に登録したメディア、または、国際的に認められた有名な海外の新聞、通信、雑誌、テレビ、ラジオの各社が発行した証明書をもつ記者および社員のみとするとした。

例えば、香港のデモ現場においては大勢の学生新聞の記者がおり、彼らは若さと機動力を生かしてデモ現場の動画をずっと撮影し、警察の過剰な暴力などの決定的瞬間をとらえてきた。今後は取材が制限される可能性があり、こういった場面が見られなくなるかもしれない。

これには予兆があった。8月10日に民主派寄りの論調を展開する新聞、「蘋果日報(アップル・デイリー)」の創始者の黎智英(ジミー・ライ)氏が逮捕された際、香港警察は同紙の家宅捜査も行い、屋外に封鎖線を張った。その際、ロイター、AP通信、AFP通信といった海外の通信社、香港の立場新聞(Stand News)、香港獨立媒體といったメディアが封鎖線の内側に入るのを拒否されている(交渉の末、数時間後に入るのを認められた)。

警察の強制捜査を受けたアップルデイリーの社屋

これまでは封鎖線の内側にほとんどのメディア関係者が入れたが、今後は封鎖線の内側については、香港警察が恣意的にメディアを選別する可能性が出てきており、フリーランスどころか香港政治に批判的であれば海外の有名メディアでも拒否されかねない。すでに香港では、8月頃からアメリカの報道機関の外国特派員への労働ビザの発給が遅延気味になるなどしており、香港の報道の自由がより締め付けられる状況になったことは間違いない。

香港よ、死にたまふことなかれ

このように、香港はデモ(=体)から法律(=頭)の戦いに移行した。三権分立や法律の安定性、報道の自由は、海外企業が香港に進出し、ビジネスをする上で大きな要素となっており、これらが失われていくことは経済的にネガティブな印象を持たれる方に働くことはほぼ確実だ。

中国政府としては、香港から中国の政府体制の維持を脅かす力を奪えるのなら、香港の強みである金融機能やフリーポートとしての都市機能を失うことは仕方ないと覚悟を決めたというだろう。