2021年ノーベル化学賞が、「不斉有機触媒の開発」の業績に対し、ベンジャミン・リスト(マックスプランク石炭研究所/北大化学反応創成研究拠点・ICReDD)およびデヴィッド・マクミラン(プリンストン大学)の両氏に授与されました。わが国は、この分野の研究・「不斉有機合成化学」のメッカと言っても過言ではないのに、日本人受賞者がいなかったのは誠に残念です。したがってマスコミでは、ほとんど話題になりませんでしたが、この研究分野はわれわれの身の回りの生活と密接に関係しています。不斉有機合成反応、不斉有機触媒の「不斉」とは何か、今年の化学賞の意義を身の回りの化学物質などと関連させて、できるだけ易しく解説しましょう。
不斉の意味と不斉な身の回りのもの
不斉は「ふせい」と読み、「そろわないこと」を意味します。手には裏表があり、自分の左手と右手をぴったり重ね合わすことはできません。これを不斉の関係にあると言います。左手を鏡に映せば右手、右手を鏡に映せば左手になります。異性体とは格好は同じでも異なるものを指し、左手と右手は鏡像異性体の関係になっています。ヒラメとカレイの関係も同じです。
ヒラメを鏡に映せばカレイになり、カレイを鏡に映せばヒラメになります。ヒラメは一般的にカレイより大きく、値段も高く、おいしいとされています。大きさが同じですと、その区別は難しくなりますが、目玉を上に腹を下にして置いたとき、顔が左を向いているのがヒラメ、右を向いているのがカレイで、左ヒラメ(ヒダリのヒ、ヒラメのヒ)、右カレイの法則(?)となります。稀にこの法則が成り立たない種類も発見されていますが、ヒラメとカレイも重ね合わすことができませんので、不斉の関係にあり、鏡像異性体です。
有機化合物になぜ不斉があるのか
さて、次に化学物質の不斉について解説しましょう。
昆布の旨味成分であるグルタミン酸は、「味の素」(グルタミン酸ナトリウム)として発売され、よく知られていますが、これにも“左手”と“右手”があり、一方は旨味を感じますが、もう片方は苦くて旨味を感じません。われわれが口にしている味の素は、当然、旨味を感じる方です。
両手やヒラメとカレイの不斉については理解できるとしても、有機化合物(※)であるグルタミン酸になぜ、左手と右手があるのかは理解が難しいでしょう。
※有機化合物:炭素を含む化合物。ただし、一酸化炭素や二酸化炭素のように簡単な構造の化合物は除く
海に行くと浸食を防ぐ消波ブロック、テトラポッドを見かけます。この構造は正4面体の中心から腕が4本伸びています。これと同じモデルを2つ作り、4本の腕の先に赤、白、黄色、緑のテープを貼りましょう。たまたま、この2つが重なる場合もありますが、その場合には、一方のモデルの色テープを2個入れ替えましょう。そうすると、これらの2つのモデルは重ねることができなくなり、お互いに鏡に映した関係になります。これが不斉です。不斉が生じるのは、化合物が平面ではなく立体的な構造になっているからです。
正4面体の中心が炭素原子、4頂点が水素とすると、これはメタンCH4で、メタンガスの構造は正4面体構造になっています。この4つの水素が違ったものに置き換わると、すなわち上述の赤、白、黄色、緑になれば、不斉が生じることになります。この中心の炭素を不斉炭素といい、高等学校の化学の授業で習ったことです。
不斉炭素が1個あれば2個の異性体が、2個あれば4個の、3個あれば8個の、すなわちn個の不斉炭素があれば2のn乗個の異性体が存在します。
サリドマイド児はなぜ生まれたのか
サリドマイドは、1957年ドイツの製薬会社から妊婦のつわり、不眠症改善のために発売され多用された薬です。ところが、妊娠初期に服用すると四肢の全部、あるいは一部が短いなどの障害のある子ども(サリドマイド児)が生まれるという不幸な薬害が起き、世界的に大きな社会問題となりました。このような薬害を二度と起こしてはならないのは当然です。
サリドマイドの化学構造式を見ればわかりますが、不斉炭素が1個存在しますので、“左手”と“右手”があり、一方は、鎮静睡眠作用がありますが、もう片方には奇形を促す催奇形性作用があることが後になって明らかになりました。当時、使用されたサリドマイドは不幸にも左手と右手の混合物だったのです。理由は、一方のみをつくる技術が当時はなかったためです。人間の身体の中で、鎮静睡眠作用のあるサリドマイドが催奇形性作用のあるサリドマイドに異性化することがわかり、この医薬品はその後、製造承認を失い消え去りました。
しかし現在は、研究によって血液のがん、多発性骨髄腫への有効性が明らかにされる等、ガイドラインの下で厳重な管理と監視とともに薬として使われている例もあります。
不斉有機合成化学の意義
上述のように、グルタミン酸もサリドマイドも、異性体によってその生理作用や薬理作用が異なるので、その作用に合うように物質を作る必要があります。自然界に存在する有機化合物や医薬品などは多くの不斉炭素を含んでいますので、多くの異性体が存在することになり、それらのうちで欲しいものだけを作るのは、不斉炭素が1個の場合より複雑になります。
ハッカ臭のメントールは、歯磨きやチューインガムなどの菓子類、口中清涼剤などに多用されるほか、局所血管拡張作用、皮膚刺激作用等を有するため、医薬品にも用いられています。不斉炭素が3個あり、2の3乗個の異性体、すなわち8個の異性体が存在します。天然のメントールは、ほぼ、これら8個のうちの一つの異性体で、このものが目的とする生理作用と薬理作用を有します。したがって人工的に、このもののみを作るには不斉有機合成反応が必要になります。
メントールの需要量は天然からの供給量を大きく超過、香料業界大手の高砂香料工業は高純度のメントールを年に40万トン生産、製造過程には2001年ノーベル化学賞を受賞した野依良治氏によって開発された不斉有機合成反応が使われています。
環境に優しいグリーンケミストリーへの高い貢献度
化学反応を促進させる触媒として、今までは主に酸素や水に不安定で高価な金属触媒(白金やパラジウムなど)や複雑な生体触媒(酵素)を用いるのが常でしたが、2021年ノーベル化学賞を受賞した2人の化学者は、第3の触媒として調製が簡単な「不斉有機触媒」を考案し、その実用性を汎用な不斉化学反応を行うことで示しました。少し専門的になりますが、不斉有機触媒としては、簡単な天然のアミノ酸やアミノ酸から誘導されたアミンを用いて、高い純度の不斉な生成物を得ることに成功しました。
SDGs(持続可能な開発目標)が叫ばれるなか、環境にダメージを与えない、優しい化学反応の開発が求められていますが、2人の化学者が発見した不斉有機触媒は、安価で安全、取り扱いが簡単な触媒で、これを用いる不斉有機合成反応は将に、環境に優しいグリーンケミストリーに匹敵するといえるでしょう。