日本銀行の総裁が10年ぶりに交代した。前任の黒田東彦氏は総裁就任時、“異次元”金融緩和を打ち出して物価安定を目指したが、頓挫する形となった。この10年の金融政策を総括しながら、植田和男新総裁が取り組むべき金融正常化への道を考察する。
黒田前総裁が打ち出した「2年間で2%の物価上昇」を振り返る
2023年4月10日、日本銀行の新総裁に就任した植田和男氏は就任会見の冒頭、抱負を聞かれ、「1998年の新日銀法施行以来25年間、物価の安定の達成は積年の課題だ」と述べた。その上で、「現在の金融緩和が非常に強力なものであるということは間違いないと思いますので、(2%の物価安定)目標に到達することに全力を挙げたいと思います。その際には、思い切ったことをやったことに伴う副作用についても配慮しながら、さまざまな政策措置をとっていきたい」と強調した。
植田氏が指摘する、いわゆる“異次元”金融緩和は世界に例を見ない大規模なものであった。その異次元緩和を10年間にわたり主導してきた黒田前総裁の軌跡とはどういったものだったのか。その総括がなければ植田新体制の今後も見えてこないだろう。
黒田前総裁が就任したのは2013年4月。就任に際し、黒田総裁は数百人の日銀職員を前に次のように檄を飛ばした。「いま日本銀行は岐路に立たされています。中央銀行の主たる使命は物価安定であるとすれば、日本銀行はその使命を果たしてこなかったことになります。世界中で15年もデフレが続いている国はひとつもありません」。
そこで、黒田氏が打ち出したのが「黒田バズーカ」と呼ばれることになる異次元緩和策だった。
その柱は、
- 日銀が市場から買い上げる国債の量を年間50兆円増やす
- ETF(上場投資信託)を年間1兆円のペースで買い上げる
- REIT(不動産投資信託)の購入額も増やす
という内容で、市中(世の中)に出回るマネーの量を2年間で2倍にすることで、2年で2%の物価上昇を実現するというものだった。この異次元緩和策について、黒田氏は「量的にみても、質的にみても、これまでとは全く次元の違う金融緩和を行います。戦力の逐次投入をせずに現時点で必要な政策を全て講じた」と見得を切った。
黒田バズーカの実態は、政権との政策協調とFRB議長の主張による賜物
この「黒田バズーカ」には、政治的な要因が深く関係していた。黒田氏が総裁に就任する4カ月前、、2012年12月26日に第2次安倍政権が誕生。安倍晋三首相は「大胆な金融緩和」によるデフレからの脱却を公約に掲げ、総選挙で大勝した。「大胆な金融政策」「機動的な財政出動」「民間投資を喚起する成長戦略」の「3本の矢」を政策の柱に据えた、いわゆる「アベノミクス」の始まりだ。
黒田総裁の使命は、まさにこの「3本の矢」の第1矢である「大胆な金融緩和」を実現することにあった。日銀総裁人事は国会同意を必要とするが、事実上、その任命は時の政権によって決まる。黒田氏を総裁に任命したのは安倍首相その人だった。「黒田バズーカ」は安倍政権と日銀による政策協調にほかならない。
ここで重要なポイントは、この「黒田バズーカ」をアメリカの中央銀行であるFRB(米連邦準備制度理事会)も高く評価したことにある。金利の上げ下げによる伝統的な金融政策に限界を感じていたのは日銀もFRBも同じだった。当時のFRB議長であるベン・バーナンキ氏は、「デフレ克服のためにはヘリコプターからお札をばらまけばよい」というマネタリスト(貨幣主義者)で、日銀のそれまでの金融政策についても「2001年3月からの日銀の量的金融緩和政策は中途半端であり、物価がデフレ前の水準に戻るまで紙幣を刷り続け、さらに日銀が国債を大量に買い上げ、減税財源を引き受けるべきだ」と主張していた。このバーナンキ氏の主張そのままに実践したのが黒田氏であったと言っていい。
次第に効かなくなったバズーカは劇薬に
確かに、バーナンキ、黒田の両氏が指摘するように、日銀が国債を大量に買い上げ、世の中にマネーを供給すれば物価は上昇、景気は大きく上向いた。だが、最も活気づいたのは株価だった。「黒田バズーカ」前に1万2000円台だった日経平均株価は、バズーカの1カ月後には1万5000円台まで急騰。為替も内外金利差の拡大に伴い1ドル=90円が1年後には103円まで円安に振れた。雇用も1年で46万人も増加した。
しかし、肝心な物価は2014年に1.4%でピークを打つ。2014年4月からの消費増税(5%から8%に引き上げ)もあり、消費が手控えられたためだが、ここから黒田日銀の迷走が始まる。公約の2年で2%の物価上昇まで半年となった2014年10月、黒田氏は「バズーカ2」を打ち出す。国債の買い入れ額を30兆円上積みして80兆円に、ETFの買い入れも3倍に増やした。「戦力の逐次投入はしない」という黒田氏の決意の表れだった。しかし、成果は上がらなかった。
目標とする物価は下がり続け、2015年2月にはついに0%に逆戻りした。結果的にこの時点で「黒田バズーカ」は失敗だったと言っていい。だが、黒田総裁は2%の物価上昇達成時期を先送りするとともに、異次元緩和の深掘りに踏み込んだ。2016年1月に「マイナス金利」を導入し、同年9月には「イールドカーブ・コントロール(長短金利操作)」を導入した。いずれも世界的に例を見ない禁じ手の金融政策だった(マイナス金利については一時スイズ中銀も導入した)。
禁じ手は劇薬でもある。「マイナス金利」は銀行の収益を直撃し、狙いとは裏腹に銀行融資の伸びを抑制した。また、「イールドカーブ・コントロール」は、本来、中央銀行がコントロールできなといわれる長期金利を人為的に抑え込む施策で、金利で価格が決まる債券市場の価格形成機能を麻痺させた。だが、これらの劇薬でも肝心な物価上昇率は低空飛行が続いた。
2%の物価安定を阻んだのは「ノルム(社会通念)」か
そして2018年4月、2%の安定的な物価上昇が実現できないまま、黒田氏は5年の任期を迎える。ここで黒田氏は辞意を表明したとされるが、安倍首相の慰留を受けて、異例の2期目に突入した。しかし、ここからの後半5年間は、ほぼ有効な手を打てないまま、むしろ「黒田バズーカ」の副作用ばかりがクローズアップされていった。
2023年4月7日、黒田総裁は退任会見で、異次元緩和に伴い株価上昇や雇用拡大という成果を強調する一方、「長きにわたるデフレの経験から賃金や物価が上がらないことを前提とした考え方や慣行といわれるノルム(社会通念)が根強く残っていたことが影響し、2%の物価安定の目標を持続的、安定的な実現までは至らなかった点は残念であります」と悔しさを滲ませた。
「黒田バズーカ」で供給されたマネーの総額は1500兆円と天文学的な数値に及ぶ。安倍政権がアベノミクスで打ち出した「3本の矢」のうち、「大胆な金融政策」「機動的な財政出動」は飛んだが、「民間投資を喚起する成長戦略」は思うように実現されなかった。結果として日銀が担う金融政策に過度の負担が生じたことは否めないが、デフレの真因は今もはっきりとはしていない。黒田氏が「ノルム」と指摘したデフレの意識が今も残っていることは確かだが、それだけがデフレの真因ではないだろう。
植田新総裁の使命は10年間で蓄積された“副作用”の解消
植田新総裁はこうした黒田総裁の10年間の政策を総括し、金融正常化という名の「出口戦略」に取り組まなければならない。これまでの10年間は異例の金融政策であったことは間違いない。その「アベノミクス」の提唱者であった安倍元首相自身は凶弾に倒れた。植田新総裁が「現在の金融緩和は非常に強力」と表現するように、その出口は容易なことではない。
時間軸的に見れば、まず「イールドカーブ・コントロール」、そして「マイナス金利」の解除が俎上にのぼる可能性が高いが、「イールドカーブ・コントロール」の解除ひとつとっても難題だ。仮に長期金利の抑制水準を徐々に緩和するにしても、その間に不測の金利上昇が生じれば過剰な債務を抱えた企業の資金繰りや住宅ローン債務者の首を絞めかねない。日本の財政への影響も懸念される。「マイナス金利」の解除もまたしかりだ。
そして、いまや国債発行残高の半分以上を日銀が保有する量的緩和を解除するには長い時間を要しよう。償還を待って徐々に残高を減らしていくという道しか残されていないように思える。
さらに厄介なのはETFの解消だ。日銀はETFの購入を通じて多くの上場企業の大株主になっている。売却に動けば株価は急落しかねない。だが、株式は国債のように償還期間がない。株式市場を壊さないためには、ETFを基金や信託等の“受け皿”に一旦移し、市場の動向を見ながら長い時間をかけて溶け込ませるしかないとみられている。また、REITを通じた不動産市場への資金供給もしかりだ。
その巻き返しは、劇薬で効果が大きかった分、手順やスピードを間違えれば致命傷となりかねない。「黒田総裁による異次元緩和策は短期決戦であったはず、それが10年間続き、長期戦になればなるほど副作用は累積した」(日銀関係者)といえる。植田新総裁は、どこから手を付けるのか。
足元では政治の風景も重なる。4月の統一地方選を経て、5月19日からはわが国が議長国を務めるG7サミットがあり、その後に待ち受けるのは解散・総選挙か――。選挙風が吹き始めた今、日銀が金融緩和の出口に動くことは難しいだろう。「黒田総裁による異次元緩和は10年間続いた。その解消にはやはり10年、いやそれ以上の年月が必要だろう。植田総裁の任期(5年)中に完全に解消されることはない」(同)とみられている。