人類初のグローバル戦争は集団的自衛権によって起きた
戦争抑止のための「集団的自衛権」が、実は大戦争を誘発することもある。ちょうど100年前の1914年7月に勃発した第1次大戦がそれだ。約5年続き、4,000万人もの死傷者を出した人類初のグローバル戦争だ。
別表でもわかるように、本当は2ヵ国だけの争いに過ぎなかった。オーストリア皇太子がセルビア青年に暗殺され、これに憤慨した前者が宣戦布告。だが、両国の背後に控える同盟国が、集団的自衛権の名のもとに次々に参戦。まるで火点した導火線のようだった。
しかも、参戦国の指導者が誰ひとりとして大戦争になると予見できなかったというから悲しい。それもそのはず。主戦場のヨーロッパは1870年の普仏戦争以来、40年間も太平の世が続き、戦争の悲惨さも風化していたのである。
翻って第2次大戦後、世界は冷戦で幕を開け東西両陣営は軍事同盟を結成、集団的自衛権でにらみ合った。しかも抑止力の目玉は核兵器で、米ソ両超大国は相互確証破壊(MAD=相手を確実に破壊できる裏づけ)を認め合うことで平和を保つという、まさに矛盾した発想で第3次大戦を阻止していた。
1989年に冷戦は終結し米ソの核戦争=人類滅亡の危機は遠のいたが、その姿は”諸刃の剣”どころか、綱渡りの平和だったのである。
それでも集団的自衛権は必要か?
集団的自衛権を憲法解釈で認める閣議決定をしたからといって、すぐにそれを行使できるわけではない。周辺法を制定していかなければ使えない。今国会では与野党が論戦を張り巡らせることになるだろう。
集団的自衛権の憲法解釈変更=徴兵制で戦争が始まる、と理解していた若者も多いと聞くが、さすがにそれはナンセンスだ。この特集で少しはその理由をわかってもらえただろうか。
さて、安倍総理がなぜそこまで集団的自衛権にこだわるのか?と問う声が多かったが、記者子は総理との長い付き合いで、その気持ちはわかる気がする。総理の祖父である岸信介氏が、1960年に日米安全保障条約を改訂したのだが、そこには集団的自衛権を行使する理解できることが書いてある。米軍が日本を守るが、米軍が攻められたら自衛隊が守る、というものである。そこには、戦勝国であるアメリカと対等でありたい、との思いが込められている。
外交などを通じて、本当の意味で対等とは感じられなかった安倍総理も、祖父と同じく少しでもアメリカと肩を並べたいという思いが強いのだ。だから、限定的であっても集団的自衛権の行使にこだわったのだろう。対等でありたいという思いは、中国の脅威よりも大きな要因だと思う。
ただ、記者子は、憲法解釈で変えていいものとは思わない。本来ならば、憲法改正をして堂々と行使を認めればいいだけの話だ。石破茂氏が総理と考えが一致しないということもよくわかる。国民は議論の行方を注視してよく吟味するのが重要だ。国会議員の3分の2以上の賛成というのは、誰もが成し遂げられなかった難題ではあるが、自民党の結党の精神は憲法改正である。
中国が各国(日本も含む)と領有権をめぐって、蛮行を振るっていることも確かに考えていかなければならないし、世界を見渡せば、ウクライナ、シリア、イスラエル、リビア、イラク、と挙げればキリがないほど武力の行使が行われているから、丸腰でいられないことはわかっている。しかし、軍拡が抑止力になるのだろうか? アメリカが強大な軍事力を持つからと言って、世界の秩序が保たれているだろうか? 尊敬されているのだろうか? 答えは否だ。
キレイごとだとはわかっているが、武力は”恐怖心”での抑圧と、憎しみしか生まないと思う。一般人を巻き込んで、何が正義だと言えるのか。文民を巻き込むのは、ジュネーブ条約にも違反している。一機何十億円もする戦闘機で、飢えた子供たちがどれだけ救えるだろうか。甘いことを言うな、と言われそうだが、メディアを運営している以上、主張はしたい。武力で人を抑圧はできない、と。