人と人との関わり合いが無ければ「教育」は成り立たない

取材/赤坂麻美

社会

人と人との関わり合いが無ければ「教育」は成り立たない

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人口減や生産性向上の課題、多様性の浸透もあり、「教育」が注目されることが増えました。1990年代の「ゆとり」など、日本は失敗とされる教育方針を出しながら、現在は幼児教育無償化や大学までの高等教育無償化、さらには教育自体の目的にも議論が及びます。学力向上? 創造性向上? 倫理観向上? 教育とはいったい何なのでしょうか。

国語・算数・理科・社会の前にあるべきもの

「教育」とは、根本的に人が人として生きていくための教養を与えることをいうのだと思います。考えてみると、人間は身体的にはほかの動物より劣った面が多い。犬のように速く走れるわけではないし、魚のようには泳げないし、鳥のようには飛べません。しかし、だからこそなのかもしれませんが、脳が発達してきました。人は脳を使って考えることが身上の生き物だといえます。人は人らしく社会生活を営むための教養を備えるべきで、そのために勉強があり、教育があります。

ところが、この視点が今の学校教育には欠けているように思います。そもそもなぜ勉強しなければいけないのか、人はどう生きるべきか、というところを経ることなく、いきなり国語・算数・理科・社会の授業を始めてしまう。後に道具として使えるような知識やテクニックは、人はどう生きるべきかという土台の上に積み重ねていくべきなのに、土台の部分に目がいっていない印象です。

これからの時代、知識やテクニックは人工知能(AI)が人間に代わっていくらでも上手に取り扱うでしょう。計算も翻訳も漢字も、手持ちのスマートフォンなどが代行してくれます。学校で勉強をしていても、どうせコンピュータにさせればいいことだと思うと、やりがいを感じられなくなってくるかもしれません。

だからこそ、AIやコンピュータで答えが出せない部分、つまり人が人としてどう生きるべきなのかという部分に一度立ち返ってものを考えるべきではないでしょうか。そうしたことが、学校教育、特に言葉で教える形の授業で、どれほど伝わるものかは少し疑問ですが、考えるべきことを子どもたちの前に提示すること自体に、きっと意味があるはずです。

人と人がかかわり合いながら学ぶ

われわれ禅僧は、大学を卒業すると修行道場に入り、最低3年、そこで共同生活をします。修行道場では、具体的に寺の経営などについて座学があるわけではありません。ただ、集団で同じ道場で生活する。そこには老師も住んでいて、老師の良いところも悪いところも全部見ながら共に生活していく。これが教育の本来の姿ではないかと思います。

家庭でも、子どもが生まれると親も成長していきますよね。人と人とが日常的に良いところ悪いところを見せ合って、かかわり合いながら切磋琢磨して学び取っていくのが、本来の勉強、教育のあり方ではないでしょうか。

日本の芸能もかつては基本的に内弟子制度を取っていて、弟子は師匠の自宅に住み込んでいました。弟子は朝から晩まで師匠に怒鳴られたり小突かれたりしながら、師匠の一挙手一投足を見て学ぶ。そうすると、直接何かを言葉で教わる以外のところから、師匠の芸が染みてくるといいます。

西洋のエリート校も多くは寮制ですし、日本も戦前はそうでした。戦争があったせいで、戦前のものはすべて誤りとするような“戦前アレルギー”が戦後ずっと続いているような印象ですが、戦前あったもののすべてが間違いではなかったはずですし、この辺りで一度、再評価してみる必要がありそうです。

指導者には責任がつきまとい、“自分”が問われる

編集部からいくつか、最近の教育現場で起きた事件や問題について話題を振っていただきました。例えばトランペット奏者の日野皓正さんが舞台上で中学生に往復ビンタ、高校生が生まれつきの茶髪を黒く染めることを学校から強要されて提訴、高校生が授業中に教師を蹴るなど暴行、といった事件です。

これら個別のケースについて、事件が起きたその瞬間だけを切り取って、誰か正しい、間違っていると断じることはできません。昨今、何か起きればすぐに動画が拡散されますが、なまじ映像で見るとインパクトが大きいし、自身で目撃した感覚になる分、事の善悪を判断できる気分にもなるのか、映像を見た人はつい誰かを非難してしまいがちです。しかし、それは間違いです。

教育とは、ここまで述べてきたように、人と人との関わり合いで成り立つものなので、100対の師弟があれば100通りの関係性があります。普段の指導者、普段の生徒、普段の2人の関係性を知らないまま、断定的なことは言えないし、思い込みに基づいて無関係の他人が非難するのは問題だと思います。

それでも、キーワードを抜き出して考えてみることはできます。まず、体罰(私的に罰を科す目的で行われる身体への暴力行為)について。体罰はあってはいけません。ですが、叩いたりすることも手段に入れた指導が、絶対にナシでダメだとは思いません。言葉遊びのようですが、そうではなく、個別の関係性のなかで、指導を受けた側がどう感じるかで是非は決まると思うからです。

生徒や弟子が「これは暴力だ」「体罰を受けた」と感じたなら、それはそこまでの信頼関係も築けていないのに手を上げた指導者に問題があります。指導者は信頼関係なくそうしたことを行えば厳しい責めを負う覚悟が必要ですし、その意味も含め、指導に責任を追うから指導者なのです。

校則やルールについて。社会生活、集団生活を営む上で最低限のルールは必要ですし、学校にも学校のルールがあってしかるべきです。ただ、それをどう使うかは、現場の人間に裁量があります。ルールはモノで、運用するのは人です。

教育の現場で、個別の事情をいっさい顧みないで、どの生徒のどの場合にも画一的にルールを適用するのはいかがなものでしょうか。私は、教師が自身の良心に従ってルールを運用していくべきだと思います。憂うべきは今、自分というものを欠いた人が多く、それは教師も例外ではないということです。

“親父”がいないのは社会のせいばかりじゃない

そういう意味では、最初にお話しした“土台”の部分を本来、誰が教えるべきなのかは難しい問題です。西洋ではキリスト教やイスラム教など、宗教がそれを担っています。人としていかに生きるべきか、生活の規範が宗教によって規定され浸透している。

日本も江戸時代には寺子屋で論語を素読するなどしていたわけですが、これも戦後、宗教が教育や政治から切り離され、あらゆる場から取り払われて今に至っています。それもあんまり極端な話で、最近は寺子屋のようなものを復活させようとする動きが各地にあり、全生庵でも「こども論語塾」 を開くようになりました。

家庭での教育について語るなら、言葉で何をどう伝えるかというよりも、大人が人としてやるべきことをやる、その姿を見せることが大切です。禅宗の修行道場と同様、朝のあいさつや食事の取り方、靴の脱ぎ方など、日々の生活をきちんとする。そこから子どもに伝わるものは大きいと思います。

少し心配なのが、“親父”不在の家が多いことですね。昔はどの家庭にも権威ある家長や、家族の尊敬を集める存在がいたものですが、今は必ずしもそうではありません。子どもと友人同士のような関係を結ぶ親が増えているように感じます。

子どもの感覚にしたら、家で「お父さんが友達」「お母さんも友達」なら、学校へ行ったって「先生も友達」にしかなりえません。教育は、教わる側のリスペクトがあって成り立つので、その意味では厳しい時代になってきました。

なぜ“親父”がいないのかといえば、封建主義的だった社会のムードが変わったこともあるでしょうが、端的に、自分に厳しくできない人が増えたことが原因のような気がします。私は父が家の中でだらしない格好をしていたり、居間でごろごろしていたりする姿を見たことがありません。

子どもは大人を、弟子は師匠を見ています。「この人すごい!」と思えることが単純に尊敬につながるので、指導者、師匠、親、そんな立場の人に求められるのは、まず自分に厳しくあることです。この連載では何度かお話していますが、やはり自律が大切で、これを欠いては教育も成り立たないのだと思います。