なぜ横綱に「品格」が必要か
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なぜ横綱に「品格」が必要か

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日馬富士は貴ノ岩をめぐる一連の騒動で引退した。白鵬は九州場所、嘉風戦で敗戦後に1分間立ち尽くした。そして、優勝インタビューで万歳三唱を行った。

横綱の不祥事や騒動によってさまざまなニュースが流れた2017年。これだけ大相撲が報じられたのは、数年前のあの人気低迷のころ以来だろう。大相撲の在り方、日本相撲協会の組織の在り方とともに改めて横綱の品格が問われている。

横綱は別格の存在

メディアもファンも力士を評するのに「品格」という言葉を使っているが、相撲ファンではない人からすると非常に疑問なことがあるのではないか。つまり「品格」とは何か、ということだ。

そこで調べてみると、横綱審議委員会による横綱推薦の第1項に「横綱に推薦する力士は、品格、力量が抜群であること」と記されていることを確認した。横綱になるには、「品格」が必要だということである。

2場所連続で優勝かそれに準じた成績を挙げること、すなわち力士として強いことは当然必要なことだが、加えて人間としての強さが求められる。実力以外の要素が明確に求められるスポーツを、私はほかに知らない。

相撲はスポーツである以前に神事だ。五穀豊穣、子孫繁栄を願い、神社では相撲が行われてきた。土俵には本場所前に行司がお祓いをし、スルメなどの鎮物を入れる。神聖な場所なのだ。

土俵入りの際に綱を締める横綱は、神が降臨した、言わば「神の依り代(よりしろ)」だ。他の力士とは別格の存在なのである。そして一度横綱になれば、大関以下に地位が落ちることはない。故に休場しても立場が保証される。付き人が10人あまり付き、年収は4000万円超。何より、相撲界の頂点という名誉を手にする。

それが例え大関であっても、彼らはそのような存在ではない。ただし、横綱は降格することが無い特権を得られる代わりに、その地位には責任が伴い、他の力士とは求められるものも異なる。

ひとつは絶対的な強さ。成績が残せない横綱は降格ではなく、引退勧告を受けることになる。そして、ほかの力士の見本になるような「品格」。だからこそ、大関以下の力士では不問にされることでも、横綱は批判されるケースもあるのだ。

不祥事が招いた「品格」問題

相撲協会では「品格」を以下のように定めている。

  • 相撲に精進する気迫
  • 地位に対する責任感
  • 社会に対する責任感
  • 常識ある生活態度
  • その他横綱として求められる事項

これを見てどのように振る舞えばいいか、わかるだろうか。そもそも「品格」がこのような定義のものであることをわかった上でメディアもファンも横綱を評価しているかというと、甚だ疑問だ。

「品格」という言葉がこれだけ大きく取り上げられるようになったのは、元横綱朝青龍が休場中にサッカーに興じたり、土俵上でさまざまな騒動を引き起こしたとき以来のことだ。朝青龍の問題行動を批判するためのフレーズとして大変便利だったのが、横綱推薦の条件として定義されていた「品格」というものだったということである。

誰もが同じ認識の定義を共有できているはずが無いにもかかわらず、それ以来、「品格」は力士を評する際の常套句になった。

「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉が闊歩していた1960年代から千代の富士が人気を博したころの時代であれば、「品格」という言葉を持ち出して批判されることもなかった。それは、強さがリスペクトの対象で、大相撲は強さの象徴たる存在だったからだ。

強さがすべての基準。相撲最強説が唱えられ、本気で闘ったら格闘技の中で力士が一番強いという説を多くの人間が信じていた。大相撲出身のプロレスラー力道山が「木村の前に木村なし、木村の後に木村なし」と謳われた最強の柔道家・木村政彦との戦いを制したことも一因だったのかもしれない。

当時は、現役横綱である大鵬と柏戸が拳銃を密輸入しても、元横綱双葉山が逮捕されても、元横綱輪島が年寄株を抵当に入れて借金して廃業しても、個別の問題として捉えられたことから、大相撲全体の信頼低下という事態にまで発展することはなかった。

しかし、数年前の不祥事のインパクトが大きすぎた。朝青龍のサッカー、土俵上での狼藉の数々、関東連合幹部への暴力事件、さらには時太山死亡事件、野球賭博、八百長問題。さまざまなことが短期間に起きすぎたのである。

一連の不祥事によって大相撲は決定的にリスペクトを失い、ある特定の力士の不祥事が大相撲全体の問題として捉えられるようになってしまった。昨今の「品格」問題は、大相撲全体の信頼低下が招いた事態なのである。

人それぞれの「品格」

メディアは「品格」を便利な言葉として使うが、適当に使ってきたことで意味がどんどんブレ、矛盾が生まれ、結果として形骸化した。メディアが生み出した争点によって、当のメディアが振り回されているのだから、実に皮肉なものだと思う。

そして、「品格」という曖昧なフレーズは人それぞれの「品格」を生み出し「品格」をめぐって、張り差しやカチ上げ、土俵外での振る舞いに対してある人は批判し、またある人は擁護する。好きな力士を擁護するときや評価するときは「品格」という言葉を用いて賞賛し、嫌いな力士を否定するときは「品格」の欠如を理由に否定する。

メディアもファンも、明確な定義が無いなかでその時々の気分で論調が変化する。世間はこれをダブルスタンダードと呼び、混乱が生じてるからこそ、「品格」とは何かという議論が生まれる。これが、実情なのである。

「品格」とは強さと同義である

相撲の世界では、相手に感謝し、土俵に感謝し、師匠に感謝する。謙虚さに裏打ちされた清く正しく美しい気高さ、つまり力士の美点こそが「品格」と言えるのだと思う。だからこそ、すべての力士に「品格」は求められる。相撲に強くなるために、人間的に強くなることが求められる。

実際、「品格」を失うと力士は衰える。朝青龍は比肩するものを失った後に暴走し、数々の不祥事によって集中力を失った結果、白鵬に抜かれた。その白鵬も近年では取口や態度が物議を醸し、土俵外でのストレスを抱えた結果、かつてのように勝てなくなってきている。

強さはリスペクトの対象だが、「品格」の無い強さは暴走や弱化を招くだけ。横綱は強くあるために「品格」が求められるのだ。

こういう時代だからこそ、あるべき「品格」を求めて力士たちは相撲に精進することが求められると私は思う。一方で、メディアは都合よく「品格」という言葉を使い、力士とファンを混乱させているからこそ、まずは世間に氾濫する「品格」という言葉を離れて、相撲の強さや素晴らしさに目を向け、それを自分たちの言葉で表すことに立ち帰るべきだと思うのだ。

「品格」とは何か。

力士もファンもメディアも、皆考える時期に来ていると思う。その答えは、2018年初場所にあるのかもしれない。「品格」に向き合うために、相撲にしかない良さ、美しさに改めて着目し、その根底にあるものが何かを今一度考えてほしい。揺れる大相撲に、改めて目を向けようではないか。