社会

「水になれ」禅寺・全生庵の平井住職に聞く多様性の受け入れ方

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特定の民族や国籍の人々を排斥する差別的言動であるヘイトスピーチ。数年前までは聞き慣れない言葉でしたが、昨今の情勢を見て日本でも一年前に「ヘイトスピーチ対策法(解消法)」が施行されました。しかし、世の中の”ヘイト”は減ったでしょうか? グル―バル化とともに問題が浮き彫りになる多様性について、禅寺・全生庵の平井住職に受け入れる方法を聞きました。

子どもに出来て大人に出来ないこと

私にはまだ小さな子どもがいるのですが、よく一緒に遊ぶ外国人の友達もいて、普段、外国人であることを意識しているようには見えません。

ところが大人になると、国籍や民族が異なる相手に敵対意識を持ち、汚い言葉で罵るなどして攻撃することもある。最近になって”ヘイト”という言葉が一般的になってきたことは、問題意識の表れだといえます。

いったい何歳頃から、人は相手の国籍や民族などを意識するようになるのでしょうね。年を取るにつれて心も体も固くなっていくので、子どもが出来るのに大人にとっては難しいことも少なくありません。

外国人をはじめ、文化や価値観が異なる人を受け入れることが日本人はどうも下手ですよね。島国ですから歴史的にも他民族と接する機会は少なく、ある程度は仕方のないところかもしれません。そういう相手とかかわらずに済むなら、それも一つの解決法だろうとは思います。

ただ、訪日観光客が急激に増え、働き手として来日する人も徐々に増えていくなかで、ただ苦手と言っていられない時代になってきました。

異なるバックボーンの人と一緒にやっていく方法は、いくつかあります。例えば、自分たちの価値観に従うことを相手に強要する。あるいは逆に、相手に全面的に従ってしまう。でも、そうしたイチかゼロのやり方よりは、どこかで折り合いをつける方が日本人の感覚にはなじみやすそうです。仏教の成り立ちを振り返ってみても、そんな気がします。

仏教の成り立ちに異文化受け入れのヒント

日本に仏教が伝来したのは西暦530年頃といわれています。インドから中国を経て日本へ――。その道中で土地ごとの風俗や考え方を吸収しながら伝わってきました。だから今、私たちが読む般若心経は、サンスクリット語で書かれた原典を玄奘三蔵が漢訳したもので、中国語の古文だったりします。

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仏教が日本に伝わって1000年ほど経つと、日本独自の仏教が出来上がってきます。鎌倉時代に生まれた浄土真宗もそうですね。

「南無阿弥陀仏」と唱えて成仏できるとか、「南無妙法蓮華経」と唱えると法華経を読み通したのと同じことになるとか、インドや中国の仏僧がびっくりするような内容も含まれています。

こうした日本仏教の成り立ちやありようを見るに、良くも悪くも、曖昧であったり、いい加減であったりするところが日本らしさなのかもしれません。

憲法にしたって、こうも何通りにも解釈可能なものは、アメリカでは成り立たないでしょう。会話のあり方にしても、日本人は「はい、そうですね」と一度は受けてから「でも……」と反論を始めたりしますよね。異論があっても最初から「いえ、違います」とは言わないのが一般的です。

その曖昧さはときに欠点にもなりますが、異なるものを受け入れようとするときには、 “なんとなく”受け入れる態勢が取れたりするので”許容の幅”になりそうです。

「自分」など無いものと知れ

禅では、人の心は元来、水のようなものだとされています。水と水なら交われますが、何かをきかっけに氷のように固まってしまうとぶつかり合ってしまう。

心が固くなるとは、「私はこういう人間だから、こういうことは出来ない、これには向いていない」などと自分のことを決めつけることです。

日本人は血液型や星座による性格診断のようなものを好む人が多いですよね。自分のことがわかった気がするからでしょうか。でもそれは、心が固くなる要因にもなり得ます。

実際、物事を見るときに、基準があると見やすいのは確かです。例えば、ここにお茶碗があります。これ自体は大きくも小さくもありませんが、ただ、何かと比べると、大きかったり小さかったりする。

そのものに大きさは”無い”のです。便利なので、その尺度を使っているだけです。同じように、私たちに「自分」なんて本当はありません。”人の心は水”とはそういう意味です。

B型だからマイペース、しし座だからリーダー気質などというのは真理ではありません。高いところから低いところへ水が流れる……、そういうことが真理であって、時代や国や信教が異なると通じないような特定のコミュニティーのルールや常識は真理ではない。

だから、異なる背景を持つ人のことを嫌だなとか敬遠したいなと感じるときは、真理に立ち返ることも有効だと思います。自分が偏狭な理屈で相手を拒んでいただけのことだと思い直せるかもしれません。

話をして、固まった心を溶かす

固まってしまったものは、溶かすしかありません。多様な人々が共存するには、まずは話してみることだと思います。

日本人はなんとなく場の空気を読んで、相手にもそれを求めるところがあります。言葉にしなくてもわかってくれるはず、察してほしい、と思っています。だから、議論をしていても途中で「何でわかってくれないんだ」と不満が募って感情的なケンカになったりします。

でも、多くの外国人は論理的に突き詰めることが好きだし、そのプロセスに慣れています。こちらが言わないことは察しませんが、議論を持ちかければ応じてくれます。

意見が異なっても、そのことで相手を嫌うこともないはずなので、怖がらずに自分の考えを伝え、相手の考えを聞いてみるといいと思います。

国と国の間に歴史的な溝があったり、別々の宗教を信仰していたり、政治に対する考え方が異なっていたり……、属性が対立していると相手が憎くなるのが人情ですが、”セクト”の話にしないで、人と人とでやりとりをするのが大切なことだと思います。

そうすることで、一人ひとりの心を溶かして、水のようにやわらかいものにできるはずです。