急がば坐れ!~全生庵便り

ボランティアに求められる精神的基盤とは

2018.10.22

社会

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写真/Ramiro Vargas Fotos Shutterstock.com

1995年に発生した阪神・淡路大震災以降、災害ボランティアは周知されるようになり、今年の夏も日本各地で発生した自然災害の被災地へ、多くのボランティアが赴きました。しかし、ボランティアと被災者の間でトラブルが起きるケースもあり、ボランティアの節度が問い直されています。また、2020年の東京オリンピック・パラリンピックの組織委員会が、運営に携わる“大会ボランティア”を計8万人募集することを発表し、その内容が賛否を呼ぶことになりました。改めてボランティアとは何なのか。平井住職の考えを聞きました。

ボランティアにはキリスト教的な精神基盤がある

ボランティアという概念は西洋から入ってきたものなので、キリスト教的な精神、考え方が背景にあると思います。例えば、海外のセレブ、お金持ちはよく慈善団体を作りますよね。あれはキリスト教のドネーション(寄贈)から始まっています。ほかにも西洋では収入の1割を教会にドネーションするという習慣もあります。自分の利益は自分一人の力で得たものではないから、ある一定は社会に還元するという考え方ですね。ボランティアも同様に、元は教会主導だったのではないかと思います。

一方、日本ではボランティアというと“災害ボランティア”のような特別な活動を思い浮かべますが、そもそもボランティアとは“志願して奉仕活動をする”、というところから始まっているので、それこそ住んでいるマンションの清掃のような日常的な、すごく身近なものでもいいわけです。

つまり、西洋の人たちはキリスト教という精神基盤があるので、ボランティアは自然なことですが、日本人はそういった宗教的な基盤がないまま、ボランティアというもののうわべだけを受け入れてしまった。だから、中には遊び半分や体験そのものが目的のボランティアが参加してくるわけです。

日本のボランティアは慈悲や施し、普請から始まる

仏教では、教えの中でボランティアのような概念はありません。ボランティアというよりは“慈悲”とか“施し”とかになります。これは、「他人も自分のことのように思って」という気持ちからですね。

ほかには禅宗の言葉だと「普請(ふしん)」があります。例えば、岐阜県の白川郷などにあるような茅葺き屋根の民家は、何年かに一度、屋根を葺き替えないといけない。昔は村が総出で一軒ずつ葺き替えていました。そういうのを「普請」といいます。「普く(あまねく)、請う(こう)」、つまり「広く、お願いする」ことで、みんなで力を合わせてひとつの事をやるというのが、昔から町や村単位で行われていたんです。

全生庵も檀家さんたちが「自分たちのお寺だから」と、自然にいろいろとお手伝いいただくことはあります。そう考えるとある程度、日本も昔から続く仏教文化的な奉仕活動、今でいうボランティアはあるのだろうと思います。

日本のボランティアもそうした独自の精神的基盤を持つべきでしょう。そうでないと何のために奉仕をしているのか分からなくなります。ボランティアだからただ奉仕をしろ、というのもおかしな話ですよね。

まず自己承認欲求という私心を捨てるべき

ボランティアというのは本来、人から認められたい、評価されたい、褒めてもらいたいという私心をまず捨てるところから始まるのではないでしょうか。言葉としては「滅私」や「公」ということですね。

例えば、災難に遭っている人を見れば、誰でも可哀想、助けてあげたいと思いますよね。そこに私心はないわけです。それがおそらくボランティアの一歩なのでしょう。しかし、私心を持ったまま行く人も少なくありません。

災害ボランティアは自己責任で行くべきものですから、行った先に迷惑をかけて差し引きゼロになってしまうくらいなら行かないほうがいい。誰にでもできることではないですが、8月に、行方不明になった2歳児を発見したボランティアの尾畠春夫さんのように、すべて自己責任で行くというのであれば、それは素晴らしいことだと思います。

まあ多少、私心があったとしても、責任が取れる準備をして行ってみるというのもいいと思います。行った先で気づかされることも多いでしょうから。

臨済宗国泰寺派全生庵七世住職・平井正修。 写真/片桐 圭

ボランティアは「無償」が条件ではない

日本人が考えるボランティアの条件として「無償」というのがあると思いますが、そういうわけでもないでしょう。

中には有償ボランティアというのもありますし、対価というものが出るとするなら個人的には受けてもいいと思います。もちろん、受けなくてもいい。

有償だとすると、それはボランティアではなくて仕事になるのでは?という疑問もあると思います。しかし、対価があるものはすべて仕事かというと、そうとも割り切れないことも多々あるでしょうから、どこからが仕事でどこからがボランティアかという線引きは難しい。結局は仕事という観念を一人ひとりがどう持つかによるでしょう。

だから、ボランティアで対価を受けたからといって、悪いわけではないと思います。まあ所属しているボランティア団体の規則でダメとなっているのなら、よくないかもしれませんけど。

受ける側の心構えも必要

ボランティアをする側だけではなくて、受ける側も心構えが必要だと思います。受け入れ体制が整っていなければ、ボランティアが行っても何をしていいかわからなくなってしまう。

引っ越しの手伝いならふらっと行ってもできるかもしれませんが、何百人、何千人を受け入れるとなったらオペレーションが必要になります。もちろん来る人を選べるわけではないので、ある程度の覚悟も必要です。残念な話ですが、人が集まるところには盗賊も集まります。

東京オリンピック・パラリンピックのボランティア募集が批判されているのは「無償」の人材を集めるということもそうですが、やはりここには受け入れる側にも必要な心構え、精神的な基盤が欠けているからだと思います。

先ほども言いましたが、ボランティアだからといってすべて無償なわけではありません。する側と受ける側に、携わる意味や価値観の合意があるかどうかが問題なのです。人手を求めるのが目的の東京五輪組織委員会は、最初からボランティアではなく「無償スタッフ募集」と呼びかけをすれば良かったのではと思います。

日常の延長線上にあるボランティアの姿

何も災害時や大きなイベントが行われるときに行くことだけがボランティアではありません。私の父親で前の住職は、毎日門の前に立って、小学生たちに声掛けをしていましたが、あれも町の治安を守るというひとつのボランティアかもしれない。

誰かを助けたい、手伝いたいという思いが芽生えたら、まずは自分の身近なできることをやっていくのがよいでしょう。その日常の延長線上にボランティアのあるべき姿が見えるのではないかと思います。