林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官の「法案は死んだ」発言によって、闇に葬られることとなった「逃亡犯条例」改正。事実上の廃案だが、香港の中国返還22周年にあたる7月1日には、さらに完全撤回を求めてデモが行われた。8月に入ってもデモは続いており、一部の若者が過激化するなど、いつ終わるともしれない状況だ。これだけ大きくなったデモが今後いかにして収束するか、これまでの香港市民の戦いを振り返るとともに、「逃亡犯条例」改正デモの決着を占う。
複雑な香港社会が生んだ反抗のアイデンティティ
「逃亡犯条例」改正は、結局のところ、「香港が香港であるため」、「自分が香港人であるためのアイデンティティを維持するための運動」というところに行きつく。世界中の国の社会というのはどれも複雑であるが、香港は、元植民地、1国2制度の導入、東京を超えるほどの国際的都市といった点において、その社会構造はより複雑だ。
今回の一連のデモや一部の若者の立法会への突入を見て、筆者が最初に思いついた言葉は「造反有理(ぞうはんゆうり)」という言葉である。もともと、文化大革命時に「造反にこそ、正しい道理がある。造反するには理由がある」というような意味として生まれた言葉だが、今ではそれが派生して「市民や下の者が政府や上の人間に抵抗するのは、それなりの理由がある」という意味で使われることが多い。
今回のデモは香港市民にとって「造反有理」そのものだが、その感覚は、これまでに香港人がどれだけの我慢を強いられてきたのかを知ることでわかるかもしれない。
香港人の我慢の歴史
イギリスのアヘン戦争を機に香港はイギリスの植民地になり、1997年に中国に返還されたのはご存知の通りだ。香港人は政治的自由を与えられなかったが、経済活動という意味での自由は与えられた。ただ、生活面では“植民地の人間”という感じで、細かな点で我慢の歴史を強いられてきたことを覚えておく必要がある。
例えば、トイレにはコストの低い海水が使われ、公営住宅は整備されず、1953年のクリスマスに大火が発生して大勢の香港人の住居が失われてからようやく始まった。その公営住宅も、台所は無い、トイレは共同で在住者数に対して数が少ないなど過酷だった。そして、今も叫ばれていることだが、昔から住宅価格が高かった。
返還後も、2000年まで年金制度は無かった(香港の公的年金制度であるMPFが整備されたのは2000年12月)。
中国人の妊婦が香港のパスポートや居住権を求めて香港で出産することが相次ぎ(香港は出生地主義のため、香港で子どもを産むと子どもに香港籍が与えられる)、産婦人科のベッド数が足りなくなり香港人の妊婦が普通に産めるのかどうか心配になった。
2003年に重症急性呼吸器症候群(SARS)が発生して経済が悪化すると、テコ入れのため「中国と香港間の経済緊密化協定(CEPA)」というFTA(自由貿易協定)が結ばれ、中国と香港の経済一体化が始まった。
同年、香港政府は基本法23条に基づく国家安全条例という治安維持法のような法律を制定しようとしたが、これに対して香港市民は50万人のデモを行い、何とか“無期限の延期”に追い込んでいる。
2003年に中国人へのビザが緩和されると、中国人観光客が大挙して香港に押し寄せ、「爆買い」が日本より何年も前に始まる。中でもひどかったのは、2008年に中国で「粉ミルクにメラミン混入事件」が発生したとき。香港に来た中国人観光客は粉ミルクを爆買いし、小売店は「一人○個まで」などと規制する事態になり、大事な子どもを育てにくくなった香港人は憤った。
その上、中国人は香港の不動産を買いあさり、さらに住宅が上がったことでマイホームは夢のまた夢になっていった……。
2007年の皇后碼頭の取り壊し抗議デモを抑えたのは…
話は少し過去に戻る。2007年に香港政府が再開発のために皇后碼頭(Queen’s Pier)という歴史あるふ頭(歴代総督が香港に赴任する際に利用したほか、チャールズ皇太子なども利用)の取り壊しを決定した際、「歴史的な建造物を壊すな!」と大規模なデモが発生した。
このときに市民と対峙したのが、当時、香港政府発展局長だった林鄭氏だ。手腕が認められた林鄭氏は、後に梁振英氏が行政長官に就任したときに政府ナンバー2である政務長官となり、その後、行政長官へと上り詰める(ふ頭は現在保存され、いつか、香港のどこかに移設することで決着)。
2012年になると黄之鋒(ジョシュア・ウォン)や周庭(アグネス・チョウ)が世に出てくることになった「反国民教育運動」が起こる。
2013年には香港政府の民放の拡大方針に際して、3社がライセンス申請をしていたが、そのうち王維基氏が率いる香港電視網絡(HKTV)だけにライセンスが交付されなかった。反中国的なスタンスだからと中国政府に忖度したことが理由だといわれている。
そして2014年は、記憶にも新しい行政長官選挙の普通選挙実施を求める「雨傘運動」が起こったが、失敗に終わっている。
2015年になると、中国共産党を批判する内容の本を販売していた「銅鑼湾書店」の店長林栄基氏らが中国当局に8カ月間拘束されるという事件が発生し、香港市民を震撼させた。
2016年の立法会選挙では、香港政府は、「雨傘運動」を率いた周庭らが香港の独立を画策しているとして立法会選挙の立候補を認めないという強硬策に出た。
2018年には香港と中国が高速鉄道で結ばれたが、香港側で中国の入管業務を行う「一地両検」を実施することが決定。これで中国の公安当局が香港領内に入って業務を行うことになってしまう。さらに香港とマカオと珠海とを結ぶ港珠澳大橋が完成。高速鉄道を含め、香港と中国の経済の一体化がますます進んでいった。
そして近年、逃亡犯条例の改正案に隠れているが、香港政府は中国国歌への侮辱行為を罰する法律の制定にも動いていた。ただ、この話まで持ち出すと火に油を注ぐことと判断して、審議を延期している。
「逃亡犯条例」改正でさすがの香港人もブチキレた
これだけのことが長い間、香港市民に振りかかっていたが、(口は悪いが)平和的な香港市民は、デモは起こすものの総じて我慢してきたといえる。いや、我慢というより、頑張ってお金を稼げば明るい未来が待っている……ということで甘んじて受け入れて生活してきた。
ところが、2012年に習近平が共産党のトップについてからは、中国は香港に対して強硬路線になり、民意を無視して中国のやり方を押し通すことが明らかに増えた。
普通選挙が実施されないことは我慢できても、身の安全が保障されない「逃亡犯条例」改正は別。我慢に我慢を重ねてきた香港市民もついにブチキレてしまった。デモによって法案自体は23条と同じく延期になり「法案は死んだ」が、香港市民はそれだけで許すことができず、「撤回」という言葉を欲した。
条例を推進した林鄭行政長官からすると、皇后碼頭と「雨傘運動」で香港市民を抑えたという成功体験があったために、今回の「逃亡犯条例」改正も大丈夫だろういう自信があったと思われる。だが今回は、エリート街道を進んできた彼女は民意をくみ取れず、想像を超える事態が起こり窮地に陥った。“計算外”とはまさにこのことだろう。
「逃亡犯条例」改正については、本来は今の香港を作りだしたともいえるイギリスがもっと責任を持つべきだと思うが、イギリス外務省は、イギリスと中国が1985年に結んだ共同声明に言及したり、「人々の権利や自由は尊重されるべき」という声明を発表したりしているものの、ブレグジットで精いっぱいで、踏み込んで対応していないという悲しむべき状況だ。
ただ、「サイクス・ピコ協定」などを考えると、イギリスは外国の土地に関しては責任を取らないという“実績”があるのでイギリス政府に期待をする方が野暮かもしれない。
香港経済はいまや中国なしでは生きられない
少々強い言い方ではあるが、香港人は中国人に対してずっと長い間、精神的に優越感があった(日本人も同じだろう)。それは経済的に発展し、自由に発言できる“法治都市”という面があるからだ。「私は香港人。中国人とは違う」という考えは、香港人にとって大きな心のよりどころである。
香港には「あなたは何人か?」という世論調査があり、1997年の香港大学の調査では「自分は香港人」と答えた人は34.9%、「中国人」と答えた人は18.6%だったが、2019年の調査では「香港人」が52.9%、「中国人」は10.8%と香港人としての意識が高まっている。
香港人は外国人から「あなたは何人?」と聞かれることが多く、日本に住んでいる香港人もうんざりするほど同じ質問を受けてきている。その都度、歴史を知らない人の「香港人って結局は中国人でしょ」という言葉に、時にはイラつき、時には丁寧に答えてきた。そうして香港人としてのプライドを保って生きてきたのだ。
それが近年、プライドを揺さぶる出来事が増えてきた。2007年1月、人民元と香港ドルの貨幣価値が逆転。かつては物価が安い中国の深センに出かけて買い物をしていた香港人だったが、今度は中国人が、物価が安い香港に来るようになった。香港ドルを使うと喜んでいた深センの店が、香港ドルを拒否するようになったことはショックだった。
経済もそうだ。1997年に中国のGDP全体の18.4%を占めていた香港のGDPは、2018年はわずか2.7%に。先述のように経済の一体化が進み、香港経済は中国なしでは生きられないようになった。
香港映画もしかり。香港映画は中国市場を見据えるようになったため、例えば、ヒロインは中国人女優を使うことが増えた。または撮影資金のバーター取引で中国人俳優を起用するというケースも増えた。事実、香港のアカデミー賞である「香港電影金像奨」では中国人女優の章子怡(チャン・ツィイー)らが主演女優賞を獲得している。経済的なことよりも、芸能のような日常的なニュースの方が中国の影響力を実感せざるを得なくなる。
“愛街心”ゆえに将来が不安な若者たち
実は、香港人は世代によって香港への帰属意識にギャップがあり、社会的な問題になっている。
返還後に生まれた若者は中国返還後の香港しか知らず、中国とイギリスに翻弄された返還前の香港を知らないため、香港愛がより強い。その愛国心ならぬ“愛街心”を持つ香港の若者は、自分たちが年をとった2047年に1国2制度が終わるため、将来が不安でたまらない。実はこれがデモの原動力につながった。
先日、香港生まれの20代に香港におけるイギリスの歴史について聞いてみたが、日本人でも知っているような“基本的なこと”を習ったという感じだ。「イギリスの印象は?」と聞いても数秒間黙った後「あまり思い浮かばない」ということだった。
「イギリスが逃亡犯条例に関してもっと責任を取った方がいいと思うか?」と聞くと「『1国2制度』はイギリスからの贈り物」という言葉が返ってきた。実際は、イギリスが返還後も香港のへの影響力を残すため、イギリスの利益のために交渉してなんとか勝ち得たというのが実情であり、香港人のために……というのは二の次だ。しかし、彼らは歴史を深く学んでいないせいか、イギリスは香港人のために1国2制度をわざわざ残してくれたと考えているのだ。
一方、彼らの親の世代である40代、50代くらいになると、天安門事件を覚えており、中国は恐ろしいという感覚を持つが、香港の経済発展とともに生きてきたために政治よりも経済優先。よりよい生活のためなら移民もいとわないという香港への帰属意識が薄めの世代だ。
60代を超えると文化大革命を覚えており、中国共産党は怖いという感覚が実体験としてある。このように、3世代で中国のとらえ方も異なる。
世界中にチャイナタウンがあるのは祖国を後にすることに抵抗が少ないことを意味する。香港人も同様に、経済的に許されるなら移民してしまえという感覚が30代後半になると強くなる。
実際に「雨傘運動」は、移民する資金が無く将来も香港に住まざるを得ない若者がけん引し、収入がある人たちは運動とは一定の距離感を保っていた。
1970年代にも香港に住んでいた香港に詳しい人物によると、「香港は定住ではなく、本来はトランジットの街だった。それが、年々、移民しづらくなって、定住する人が増えた」と語っていた。
それでも暴力はデモの力を削ぐことになりかねない
警察は6月12日にデモ隊と衝突した際、多くの催涙弾を使用したことで世間から非難を浴び、数日後の200万人のデモを引き起こした要因のひとつとなった。これによって以前より武力行使しにくくなっていた。
7月1日にデモ隊が立法会内に侵入する際、警察は止めることもできたが、衝突を避けるために現場から撤退し、制止する者のいなくなったデモ隊は立法会内部を破壊するなどした。それについて「デモ隊を悪く見せるための陰謀」など、さまざまな憶測が飛び交っているが、少なくとも警察側は世論を気にしていたはずだ。
しかし、デモ隊による立法会の占拠は、警察に武力を使っていい口実を与えてしまった。林鄭行政長官や親中派議員もここぞとばかりに「違法行為」だと非難。その後も香港内でデモが頻発したが、警察官のデモ慣れや政府の意向もあるせいか、警察の態度は明らかにアグレッシブになっている。
デモ隊が立法会へ突入したことは、一部が過激化したもので、決して全体の意見ではない。彼らが突入する前、民主派の立法会議員である毛孟静(クラウディア・モウ)がやめるよう説得にあたっていたが、「もう3人死んでいるんだぞ」(「逃亡犯条例」改正に関して、3人が抗議の自殺などで亡くなった)と、感情的になり全く聞く耳をもたなかったことからも推測できる。
事実上の撤回になったのにもかかわらず立法会への突入に固執したのは、我慢を重ねた上に、香港政府は自分たちの意見を聞いてくれないという怒りや絶望感からくる自暴自棄の雰囲気が広がりつつあったからだ。6月下旬に大阪で行われたG20開催に合わせて、民主側は、朝日新聞、米ニューヨークタイムス、英ガーディアン、韓国の朝鮮日報、豪ザ・オーストラリアンなどに広告を打ったが、それは平和裏にデモを行っているという事実があったからこそ掲載できたこと(暴力を伴うデモの広告掲載はありえない)。
今回の一部のデモ隊による過激な行為は、広告自体を自己否定することにもつながる。対中国政府には国際世論の圧力が必要だが、こういった行為は香港の外からの支持を失わせる危険性をはらむ。香港の深い事情を知っている外国人は多くはないので、ビジュアル的にインパクトのある暴走行為は人間の心理を“引かせる”には十分だからだ。この辺はデモ隊も考えて行動する必要があるだろう。
リーダー不在のデモはコントロールを失っていく?
黄之鋒などのリーダーがいた「雨傘運動」とは異なり、今回はこれといったけん引役がおらず、“市民全体で抗議する”というのがデモの推進力となった。普段は一緒にならない、デモの方法論など意見の異なる人たちが共に行動したことで大きな力になった一方、リーダー不在ゆえに一部の過激な人たちを止めるのは難しく、統制が取りにくいというデモの難しさも浮き彫りになった。
香港科技大学の学生会のヴィンセント・ン外部副プレジデントの「立法会を占拠することは考えていたが、立法会内でスプレーを吹きかけるといった行為はコントロールできることではなかった」というコメントがそれを象徴している。
香港市民は、立法会突入についてはそれこそ造反有理の心理が働いて、複雑な思いはあるものの容認している感がある。7月2日に「經濟通」と「晴報」という香港メディアが合同で立法会での破壊行為についてインターネットでアンケート調査を行ったところ、約35万人の投票のうち83%が容認すると回答している。
リーダー不在のデモは、誰かの声かけによってさまざまな場所でデモが発生するため、警察側はモグラたたきのような対応に追われることになる。いつ終わるともしれないデモへの対処に徒労感だけが残るだろう。事実、8月に入ってからもデモの過激化が止まる気配はない。
いずれにしろ、事実上廃案となった逃亡犯条例改正案は、基本法23条に基づく国家安全条例と同じく、議会に再提出を図るのはほぼタブーになったことは間違いない。ただ、民主派が要求している法案の“完全撤回”はないだろう。先述のように、中国は民意が政治を動かすことは容認し辛いからだ。そして、火種はずっとくすぶり続ける。
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2003年の国家安全条例のときは、董建華行政長官はレームダック化し、任期満了を待たず健康問題を理由に辞任したが、実質的な引責辞任だった。当時のナンバー2だった曾蔭権(ドナルド・ツァン)政務長官は、香港市民に人気が高く、実務実績もあったため、行政長官代行を務めた後、その後の補欠選挙でも勝利した。
今回、あえて中国政府が香港市民に妥協を示すという意味で林鄭行政長官を辞任させるとしても、現在のナンバー2の張建宗(マシュー・チュン)は誰が見てもトップには心もとなく、適任者がいない。7月14日付の英紙「フィナンシャル・タイムズ」は、林鄭行政長官が中央に辞任の意向を示し、慰留されたと報じている。「自分が起こした事態を収拾しなければならない」と言われたようだが、中国政府は彼女を辞めさせたくても辞めさせられないという状況なのだ。
ただ、2020年には立法会選挙が控えており、このままでは親中派が惨敗する可能性が高いため、結局はそれまでに辞任を認めるかたちとなるだろう。