例えばサステナビリティの視点で語られる共生社会やユニバーサルデザイン、東京2020パラリンピックの生中継など、昨今は障がいのある人の社会参加に注目が集まることが増えた。ただ、数十年前から雇用問題に取り組む社会福祉法人 太陽の家の山下達夫理事長と、“共生企業”を掲げる三菱商事太陽の福井秀樹社長からすると、現状は「まだまだ」だという。障がいのある人の雇用のこれまでと未来について聞いた。
三菱商事太陽株式会社 代表取締役社長
福井秀樹 ふくい ひでき
始まりは1964年の東京パラリンピックから
「これからはコンピューターの時代。障がいがあっても自宅で働くことができる」
コロナ禍をきっかけにテレワークが浸透した現在ならいざ知らず、つい数年前まで日本ではこのような考え方はあり得なかった。どれほどPCのスペックが上がり、インターネットが普及しても、毎朝、満員電車に揺られて会社に出勤することは当然のことだったからだ。
しかし、太陽の家の創設者であり、三菱商事太陽の初代社長でもある医師・中村裕(なかむら ゆたか)博士は、40年近く前から上述のような昨今のテレワークと同義の働き方を提唱していた。中村博士は1960年代からパラスポーツの振興を図り、1964年の東京パラリンピックの招致に尽力した“日本のパラリンピックの父”と呼ばれる人物だ。
中村博士が、障がいのある人の職業的自立や働く環境づくりに取り組む社会福祉法人 太陽の家を設立することになったのは、自身が日本選手団団長を務めた1964年の東京パラリンピックがきっかけだったという。
中村博士は当時、昼に競技を終えた外国の招待選手が夜に『銀座へ行くぞ』と皆で飲みに行って楽しく過ごす姿を目にして衝撃を受けた。一方、日本選手は皆、宿舎に帰るばかり。この違いは国民性ではなく、経済的なバックグラウンドにあると気づいたという。
というのも、外国選手は皆、医者や弁護士だったり事業をしていたり仕事を持っていた。それに比べて日本選手で仕事を持っていたのは数人だけ。それも実家の仕事を手伝っている程度。当時の日本には、障がいのある人の仕事はほぼ無いに等しかった。パラリンピックは成功したが、日本選手たちは中村博士に『私たちも仕事がしたい』と懇願したという。
三菱商事太陽の設立で頭脳労働分野への進出が加速
中村博士はその声を聞いて、翌年の1965年に太陽の家を故郷の大分県別府市に設立する。「保護より機会を」「世に身心障害者はあっても仕事に障害はあり得ない」をモットーに200社以上もの企業を訪ね、やがてオムロンやソニー、ホンダなどの名だたる企業の理解と協力を得て共同出資会社をつくり、工場での作業を中心に障がいのある人の仕事を増やしていった。
オムロンとの協業では、工場経営として初年度から黒字にするほどうまくいったという。そんななか、中村博士はその先を予見し三菱商事に新たな提案をする。
製造業ではない三菱商事は、中村博士から「これからはコンピューターの時代だ」「コンピューターであれば車いすの人が座りながら、仕事をして、寝たきりでも仕事ができるんだ」という言葉を聞き、その理念に共感。そこで、一緒に何かやれないかというところで、まずは太陽の家にコンピューターを寄贈、それを機にプログラミングのトレーニングをする「情報処理科」がつくられた。そこから育った人を10名採用し、1983年に発足したのが三菱商事太陽だ。
コンピューターによる情報処理、マルチメディア・コンテンツの制作、オンデマンド印刷などの事業を行う三菱商事太陽によって、製造業が多かった労働現場が頭脳労働分野にも広がっていく。
中村医師の先見性に時代が追いついた
太陽の家の山下達夫理事長は、三菱商事太陽設立時の10人のうちの一人。プログラマー・システムエンジニアとして働き、2014年~2016年は三菱商事太陽の5代目社長を務め、在宅勤務制度を導入するなど、中村博士の理念の実現に尽力してきた。
「保護より機会を」に象徴される“中村イズム”を、太陽の家や三菱商事太陽での活動のなかで主張し、体現してきた山下理事長。PCが普及する以前からIT産業への進出を目指すような、常識を破る中村博士の先見性をどのように受け止めていたのだろうか。
「私にとって中村博士は雲の上の人です。初めてお会いしたのは1983年の三菱商事太陽の設立で行われた調印式だったと思います。そのときに『これからの三菱商事太陽を頼むぞ』と言われたことを守り、中村博士の言葉を目指していこうと思ってここまでやってきました。
私が三菱商事太陽の社長を務めることができ、在宅勤務制度を始めたことや納税者となって家族を持てたのも、中村博士がつくった太陽の家があったから。三菱商事太陽を卒業したあとも太陽の家に貢献したいとはずっと思っていました。そういう意味で中村博士の遺志はずっと守ってきているつもりです」(山下理事長)
インクルーシブな“共生企業”を目指して
三菱商事太陽で働く人材は、1990年代ごろまでは太陽の家からの採用が多かった。しかし、それだけでは会社を成長させるには限界があり、2000年を越えた頃から太陽の家以外からの採用も増えていったという。それについて三菱商事太陽の福井秀樹社長はこう語る。
「私が三菱商事の人事部にいた90年代ごろの三菱商事太陽の従業員数はまだ30名ぐらいで、“車いすの人が働いている会社”といったイメージでした。現在は約110名に拡大し、そのうち障がいのある人は約70名、障がいのない人は約40名。障がいのある人だけが働いている会社ではなくなりました」(福井社長)
障がいのない人の採用が増えていった結果、社内で起きた変化が“共生”だったという。
「当初は障がいのある人をサポートしてもらうための障がいのない人の採用ということでしたが、それが次第に変化していきました。同じ制度の中で一緒になって切磋琢磨しながら仕事をするようになったんです。
オフィスのユニバーサルレイアウトなどのハード面をはじめ、精神保健福祉士の常駐といった専門のチームによるソフト面でのワークサポートは必要ですが、今ではお互いが協力し合って一体となって働いているインクルーシブな企業のモデルのひとつではないかと考えています」(福井社長)
「障がいのある人も甘えてはいけない」
山下理事長は三菱商事太陽のようなインクルーシブな“共生企業”がもっと増えて行くためには「障がい者雇用率だけを求める雇用ではダメだ」と主張する。
「企業がいかに障がいのある人を戦力として考え、雇用するか。それしかないと思います。そういう考え方を企業の側からしない限り、“共生企業”は、はっきり言って難しいでしょう。そのためには障がいのある人も障がいを盾にして甘えてはいけません。
例えば、太陽の家がある別府市はバリアフリーが充実しており、誰もが働きやすく、生活しやすい街でもありますが、これは太陽の家が行政にアドバイスしながら変えていったという自負があります。さらにさかのぼれば、太陽の家の障がいのある人たちがどんどん街に出て行ったことで、街の飲食店や施設などがその人たちに合わせて、段差をなくす、車いすも入れるトイレを設置するなどといった対応をするようになったことがあります。そうやって徐々に変わっていったことで別府は“おもいやりの街”と言われるようになりました。
雇用も同じです。われわれは『ここで働きたい』とか『ここに行きたい』と思っても、一方で“行きたい場所”ではなく、“行ける場所”を考えがちです。これからは“行きたい場所”を考えていくような時代になっていかなければいけません」(山下理事長)
個々が持つ特性が生きる仕事を
自身も身体に重度の障がいを持つ山下理事長だが、社会における障がいのある人自身の姿勢にとても厳しい。
「私は『合理的配慮』という言葉があまり好きじゃないんですよ。もちろん合理的配慮が必要な方もいますが、一方で障がいのある人がその言葉に甘えてしまっているのではないかと危惧しています。『この会社は合理的配慮が無いじゃないか』と。
企業が障がいのある人を雇用しようという考えがあれば、合理的配慮があろうとなかろうと、トイレを広くしたり、スロープを付けたり、きちんと整備しようとしますよ。この言葉がある限り、社会はまだ『障がいのある人は弱者で、何もできない』ととらえていると私は考えています。だから、企業も障がいのある人も『何ができないか』を考えるのではなくて、『できるために何をすべきか』を考えていかないといけないと思います」(山下理事長)
合理的配慮
障がい者が感じる社会的障壁に対して何らかの対応を必要としているとの意思が伝えられた場合、負担が重すぎない範囲で対応することが求められる。障害者基本法、障害者差別解消法などに定められており、国や自治体には法的義務、民間企業・事業者には努力義務(2024年6月までに法的義務化)として課せられている。
共生企業の実現はなかなか難しいとは言うが、世間の意識は確実に変わってきたと山下理事長は語る。
「障がいのある人の雇用については、企業は法定雇用率が義務として設定されるようになりました。スポーツで活躍し得るということも、パラリンピックのライブ映像を見るまでは考えられなかったと思います。また、障がいのある人をテーマにしたドラマも多くつくられるようになり存在が身近になりました。まだまだという気持ちもありますが、世の中の意識は変わってきていると感じています」(山下理事長)
障がいのある人自身の変化はどうだろうか。
「経営者もいますし、ITをはじめさまざまな分野で活躍している人も増えています。例えば、テレビゲームにはデバッグ作業がありますよね。ああいった仕事を請け負う会社の中には発達障がいの人を多く雇っている会社もあるんです。太陽の家には精神障がいの人もいますが、その人はeスポーツの大会で準優勝したこともあります。そういった特性を引き出すのも今後のわれわれの仕事かもしれません」(山下理事長)
“中村イズム”の究極は「太陽の家なんかなくなればいい」
障がいのある人が活躍する場が増えていくなかで、山下理事長にはある野望があるという。
「大分空港はアジア初の、 ロケットを搭載した飛行機の離着陸場である“宇宙港”を目指しています。私の今の野望は、世界初の障がいのある宇宙飛行士を太陽の家から出すこと。新しい扉を開けるチャレンジを続けることは中村博士の教えですから、ぜひ実現したいですね」(山下理事長)
パラスポーツから始まり、雇用、生活に至るまで障がいのある人の可能性を広げ、新しい扉を開けてきた“中村イズム”、その魂は今も脈々と受け継がれている。
「世の中は移ろいますが、中村博士が目指した理念というのは変わっていないと思いますし、変わってはいけないと思っています。実は中村博士は生前、『太陽の家なんかなくなればいい』と言っていました。それは障がいのある人が太陽の家のようなところに留まるのではなくて、普通に仕事をして生活しなければいけないという思いから出たものです。今は少しずつだけど近づいてきているのかなと思っています」(山下理事長)