イギリスが「EU離脱」を実行できない“喉元に刺さったとげ” 北アイルランド紛争の悪夢
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イギリスが「EU離脱」を実行できない“喉元に刺さったとげ” 北アイルランド紛争の悪夢

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イギリス議会は3月12日、EUとテリーザ・メイ英首相が合意した、イギリスがEUから離脱するための協定案を大差で否決した。否決はこれで2度目となり、3月29日に訪れる離脱交渉期限まであと僅か。時間切れのまま最悪シナリオ“合意なき離脱”に突入かと懸念されるなか、3月21日、EUは約半月期限を延長するという“助け舟”を差し出して当座の危機を回避。だが綱渡りの状況は続き、メイ首相は議会に新たな提案をする必要に迫られている。イギリス議会が紛糾する大きな問題のひとつ、北アイルランドの国境問題とはどんな内容か。

イギリスが抱える特殊事情

出口の見えないイギリスのEU離脱(ブレグジット)が抱える最大の懸念材料は、やはり“喉元に刺さったとげ”、英領北アイルランドの存在だが、歴史的背景も複雑で日本人にはあまりピンと来ない。

イギリス本土のグレートブリテン島の西に浮かぶアイルランド島の北東部地域=北アイルランドはなぜかイギリス領である。そして、「グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国」という同国の正式名から同地が特殊な立ち位置であることに気づくはずだ。もちろん隣の独立国、アイルランド共和国とは陸続きで、今のところイギリスとともにEU加盟国なので国境には壁も検問所も無い。

EU経済圏は「ヒト・モノ・カネ・サービス」の往来が基本的に自由な単一市場だ。だが、ブレグジット後は国境の管理強化が避けられず、さしものトランプ・アメリカ大統領なら「急いで壁を造れ」と叫びそうだが、壁を目に見える形で構築すれば住民たちに“分断”を強く印象づけてしまうだけに両国とも慎重。過去の悲劇、「北アイルランド紛争」の再燃を危惧するからだ。

現代まで尾を引くイングランドとアイルランドの対立構造

悲劇の歴史は800年以上もさかのぼる。12世紀半ば、グレートブリテン島で台頭するイングランド王国は領土拡大のため隣接するウェールズやスコットランドに侵攻、対岸のアイルランド島にも触手を伸ばし植民地化を画策する。だが当地では勢力が乱立、肝心の王国でも内紛が繰り返され完全征服にはほど遠かった。

17世紀半ばに同王国で清教徒革命(ピューリタン革命。キリスト教カトリック派と袂を分かちプロテスタント派が勃興)が勃発し、議会派のオリバー・クロムウェルがチャールズ1世を殺害、共和制を宣言して実権を握ると、アイルランドの完全支配を目指して大軍を送り、1650年代に征服を果たす。

イギリスによるアイルランドの完全統治はその後、約300年続き、「入植者=主としてイングランド・スコットランド系、プロテスタント教徒)」の少数派・支配階層と、「アイルランド人(ゲール人・地元民)=主としてケルト系・カトリック教徒」の多数派・被支配階層という対立構図も現代まで尾を引く。

北アイルランドは“分離”されイギリスの一部に

19世紀を迎えると1850年前後に主食であるジャガイモの大凶作で未曾有の大飢饉が発生、餓死者は100万人以上ともいわれ、200万人以上が新天地アメリカに逃れた。人口800万人程度の当時のアイルランドにとってダメージは甚大で、地元民の怒りの矛先は宗主国・大英帝国に向けられる。

20世紀に突入すると世界的な民族自決(植民地解放・独立)運動が盛り上がり、加えて1914年に第1次大戦が始まると、好機ととらえたアイルランドの独立派は武装闘争を本格化。1919~1921年に全土を舞台にした「独立戦争」が起こり、独立派、現状維持派(イギリス統治肯定派)双方が武装組織を繰り出しテロ・ゲリラ戦で応酬、鎮圧に当たる警察やイギリス軍も武力で臨んだため凄惨を極めた。

しかし、強権による解決は無理と判断したイギリス政府は、ついに1921年「ブリテン=アイルランド(英愛)条約」を締結、翌1922年には広範な自治を持つ英連邦内の自治領「アイルランド自由国」が成立する。

だが住民の多数が現状維持派を占める北アイルランド(北東部6州=アルスター地方)がこれに猛反発、結局「残る北東部6州は将来独立派が多数となったときに住民投票で帰属を決める」という曖昧な妥協案で、北アイルランドを“分離”し、イギリス領への残留を認める。一方のアイルランドは第2次大戦後の1949年に共和制を宣言、英連邦からも離脱し、悲願の完全独立を勝ち取る。

3600人以上が犠牲になった「北アイルランド紛争」

さて、戦後しばらく落ち着いていた北アイルランド情勢も1960年代に入ると急変。旧体制に対する若者の反発の世界的広がりや、アメリカでの公民権運動に触発された少数派の独立派(カトリック系)が、差別的政策を行う北アルランド自治政府を指弾するため大規模デモや集会を展開、1969年には武装闘争の再開を宣言し泥沼状態の「北アイルランド紛争」へと突入する。

カトリック系を中心とした独立派は「アイルランド共和軍」(IRA)、プロテスタント系の現状維持派は「アルスター義勇軍」(UVF)、「アルスター防衛協会」(UDA)といった武装組織を繰り出し、競うかのように爆弾テロや暗殺、放火で相手側を攻撃。イギリスは正規軍を大挙送り込んで治安維持に挑むがIRAにとっては彼らも敵であり、攻撃をエスカレートさせていく。

こうした状況のなか、1972年には独立派の集会に対し過剰反応した英陸軍特殊部隊SASが発砲、13人を射殺するという「血の日曜日事件」といった惨劇も発生している。

この間もイギリス、アイルランド両政府は政治的解決を模索し続けるが、たびたび出される平和プロセス案に対し、両派の強硬派がそれぞれ反発、テロ・ゲリラ活動を先鋭化させるという悪循環に。1980年代後半になるとIRAの活動はイギリス本土や欧州へと拡大、首都ロンドンでも爆弾テロを続発させた。

だが東西冷戦終焉という世界秩序の劇的変化と両国の粘り強い交渉の結果、対立する両派もついに軟化し、1998年4月に包括的な和平協定「ベルファスト合意」にこぎ着き、ようやく北アイルランドから銃声が消える。ただしIRA内の強硬派(暫定派IRA=PIRA)が武装解除に応じたのは2005年に入ってからだった。

“合意なき離脱”が招く事態

死者3600人以上を強いた北アイルランド紛争はこうして一応の終息を見たわけだが、同地の“首都”ベルファスト市内には、両派の抗争を避けるため構築された「平和の壁」が今も残ったままで、プロテスタント、カトリック両住民が抱く不信感の根深さが垣間見られる。

一方、EU離脱の交渉期限が2019年3月29日に迫るなか、離脱案を2度もイギリス議会に否決され“万事休す”かと見られていたメイ首相。だが3月21日開催のEU欧州会議(加盟27カ国首脳会議)では、約半月、4月12日までの期限延長を決定したことで“合意なき離脱”という最悪シナリオを辛くも回避。

加えてその間に議会を説得すれば、5月22日までさらなる延長も可能という姿勢をEUは示す。まさに首の皮一枚でつながった格好のメイ首相だが、強硬に反対する議員たちを説得できるような新たな離脱案を提示できるかは相当微妙だ。

では、仮に“合意なき離脱”となった場合、どのような事態が想定されるのだろうか。まずEUとの協定により、アイルランドへの経済・貿易的ダメージ、さらにはEUの混乱を避けるため、イギリスは当分の間、EUの関税同盟に存続しなければならない。「バックストップ」(安全策)という一種の“保険”である。だが、これでは事実上イギリスはEUの管理下に置かれたままだ、として議会の強硬離脱派はそもそもバックストップそのものに反対を唱える。

また、離脱後にアイルランド・北アイルランド国境に壁を造らずに貿易や入国の管理を強化するという、ある種矛盾する難問の解決策として、「北アイルランドとイギリス本土とは海で隔てられているので、ここで貿易・入国の管理をすればいいのでは」という指摘もある。だが、これはイギリス本土と北アイルランドとの分断を意味するとして北アイルランドの現状維持派は猛烈に反対。

さて、それでも万が一“合意なき離脱”が強行されれば、イギリス経済が深刻なダメージを受けるのは必至だろう。それ以上に深刻なのはウェールズやスコットランドでも分離独立運動が巻き起こり、最悪の場合「イギリス」は崩壊、800年前の「イングランド王国」に逆戻りする可能性も否定できないことだ。