みんなの知らない黒柳徹子の素顔 「徹子の部屋」田原敦子プロデューサーが語る番組飛躍の舞台裏

2019.12.18

社会

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写真:テレビ朝日

テレビ朝日の名物番組「徹子の部屋」は来年45周年。1976年の放送開始から1万1000回以上が放送されてきた。長寿の陰には、低迷していた視聴率を改善し、「アメトーーク!」をきっかけに若い層にも認知を広げたプロデュ―サー、田原敦子さんの広報戦略がある。社会情報大学院大学の無料公開講座に登壇した田原さんが、「『徹子の部屋』に学ぶ広報コミュニケーション戦略」と題して、同番組のマーケティング術とともに司会・黒柳徹子の武勇伝や番組飛躍の舞台裏を語った。

株式会社テレビ朝日 プロデューサー

田原敦子 たはら あつこ

1986年、テレビ朝日入社。ドキュメンタリー番組やワイドショーを制作。ディレクター時代には番組のコメンテーターを務めたことも。ユニセフ親善大使を務める黒柳徹子に同行しアフリカの難民キャンプなどを取材する番組に参加。その後、「世界の車窓から」のプロデューサーを経て、2003年、「徹子の部屋」のプロデューサーに。父親はジャーナリストの田原総一朗。1995年、ドキュメンタリー番組で民間教育協力協会会長賞。2002年、日本女性放送者懇談会会長。2006年、「徹子の部屋」スタッフとして菊池寛賞受賞。

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石田三成に学んだ処世術で制作現場へ

田原さんがテレビ朝日に入社した当時、同期に女性は2人だけだったそう。制作現場を志望したが叶わず、最初の配属先は秘書課だった。「最初は仕事がつまらなかったけれど、よく見ると周りに人事の権限を持った役員たちがたくさんいる。これはチャンスだと思った」と意欲的に仕事に取り組んだ。

参考にしたのは、故郷・滋賀の戦国武将、石田三成の「三献茶」のエピソード。鷹狩りでのどが渇いた豊臣秀吉に、最初はぬるめのお茶を大きな茶碗で出し、2杯目を所望されると少し熱めのお茶、少し小さめの器に変え、3杯目は小さな茶碗で熱いお茶を出したという、秀吉を喜ばせた三成の少年時代の逸話だ。

「朝はお茶と一緒にお水も出す。冬のお茶は熱く、夏は冷たく、おしぼりも一緒に。午後3時には手製のクッキーも添えました。役員がゴルフに行くと言ったら、ゴルフ場の地図だけでなく、おすすめの周辺レストラン情報も一緒に渡します。当時はインターネットがないので、雑誌記事を選んでコピーしていました」(田原さん、以下同)

気の利いた仕事ぶりが重役たちの目にとまり、異動希望は早期に通って、田原さんは制作現場へ移ることになる。

「現場では一番下っ端で、駆けずり回って雑巾がけのような仕事をしていましたが、とにかく楽しかった」

ちなみに、故郷に伝わる価値観や哲学は今も大事にしている。

「近江商人の言葉に『三方よし』というのがあります。商品を売る人だけじゃなく、買う人にも世の中にも良い。それが長く繁栄する商売のあり方なんですよね。テレビでいえば、視聴者、出演者、番組制作サイドの三方に良いことを考えます。自分だけ得をする形を追い求めると、どこかでほころびが出るものです」

田原さんはこの考えで、黒柳徹子のような業界の重鎮にも自分のアイデアを臆せず伝えている。そして、その案に当初は反対されても、最終的に受け入れてもらうことに成功してきた。

「うまく言いくるめようとしたことはありません。三方よしになるように考えて、説明の際にもそこを丁寧に話すだけです」

学校法人先端教育機構 社会情報大学院大学にて。

ルワンダ大量虐殺の現場で黒柳徹子がカメラを

田原さんと黒柳徹子との出会いは、ユニセフの特別番組だった。ユニセフ親善大使の黒柳が毎年、世界の紛争地域や自然災害の被災地などを視察して報告するドキュメンタリー番組だ。田原さんは若くしてそのディレクターを任され、海外ロケに同行するようになった。

「その年に最も支援が必要と思われる国・地域を訪ねるので、とにかく過酷です。初めて黒柳さんの視察に同行した地域は、終わったと聞かされていた内戦がまだ続いていて、泊まる予定だったキャンプがなく、近くの村に泊めてもらいました。

夜は付近をハイエナとゲリラがうろつく環境です。黒柳さんは『あなたは将来ある身だから』と私を一番奥に寝かせ、自分は入口でいいと言って譲りませんでした。夜、みんなでトイレに出かけると、ホームシックになっていた私に、満天の星の下で星座の話を聞かせてくれました」

20年以上にわたって携わる番組で、特に忘れられないのが、1994年のルワンダでのロケだという。ルワンダではその年、フツ族とツチ族の対立によって大量虐殺が起きていた。主にフツ過激派が少数派のツチ族とフツ穏健派を殺害したとされ、犠牲者は100日間に約80万人ともいわれる。

「ある教会を訪ねると、祭壇の辺りに人々の遺体が折り重なっていて、発生したアンモニアで目も開けていられないほどでした。ナタで首を斬られた子どもの遺体や、子どもを守りたかったのか、子どもに覆いかぶさったまま斬られて死んだ大人の遺体。むごたらしくて、今も忘れられません」

凄惨な光景に取材班の誰もがショックを受け、撮影に反対する人も出てきた。

「『この人たちは、こんな姿を撮られるために死んだんじゃない。撮ってはいけない』と若い男性スタッフが言いました。とはいえ、撮るために私たちはルワンダを訪れたわけです。口論になって撮影が止まり、そのとき黒柳さんがカメラを奪って言い放ちました。『回し方、教えて。私が撮るから!』と仁王立ちです。『この人たちの無念さを伝えなくてどうするの』とスタッフを叱咤激励。なんとか撮影を続けられました」

ちなみにこのルワンダ取材で、田原さんが「地味に印象に残っている」のが、黒柳をはじめ女性陣3人の食欲が落ちなかったこと。「男性スタッフは人生のことなどいろいろ考えてしまって、食事がなかなかのどを通らないそうなんです。でも私たちは、毎日食べるものが少ないなかで、食べられるものはモリモリ食べていました。女性は切り替えが上手ですよね」と田原さん。

中でも強いのが、やはり黒柳。

「暑さに強いし、疲れ知らずですね。移動の車中ではみんな寝てしまうけど、黒柳さんは眠りません。むしろ居眠りする私を起こして『この光景を目に焼き付けないと。そして撮れるものは撮りましょう』と言うんです。

一日の撮影が終わってクタクタで宿に着いても、夕飯の後にみんなでわいわいトランプをするのが大好きで。日本から持参したようかんの一切れをかけて7並べやババ抜きをするのが恒例です。本音を言えば、私たちは早く休みたいんですけどね(笑)」

「徹子の部屋」を人気番組に押し上げた“芸人斬り”

田原さんはユニセフの特番を手がけながら、「世界の車窓から」のプロデューサーを兼任するようになり、そして今から17年前、39歳にして「徹子の部屋」のプロデューサーにも抜擢された。ベテラン社員が定年退職前に担当することが多かった「徹子の部屋」で、史上最年少のプロデューサーだった。

「会社から課せられたミッションは、視聴率を6%まで引き上げること。当時は1%前後と低迷していたので、なかなかのチャレンジです。そこで、ゲストの顔ぶれを変えることにしました。当時は、伝統工芸の職人さんなどが毎回登場していた。伝統や文化を伝えるのはステキなことですが、それ一辺倒では視聴者層の幅がどうしても狭まってしまいます」

そこで田原さんが目を付けたのが、明石家さんまや所ジョージ、爆笑問題ら人気お笑い芸人。黒柳は「(自分の好きな落語などと違って)笑えないから嫌だ」と難色を示したが、田原さんは「つまらなければ『つまらない』と言っても構わないから」と説得。芸人側には「黒柳さんが『つまらない』と言うかもしれませんが」と説明した上で出演を依頼した。

「断られるかと思ったんですが、意外に皆さん、『挑戦したい』と言ってくださいました。そして名だたる芸人さんたちが黒柳さんに挑みかかり、バッタバッタと斬られていきました(笑)。ネタをやり終えた直後に黒柳さんから『今のはどこで笑うべきだったの?』と真顔で聞かれて。ゆっくりはっきりしゃべってオチを強調しないと、黒柳さんには通じないんですね。黒柳さんのその感覚は、50代以上が多い番組視聴者の気分を代弁しているところもあって、視聴率はぐんぐん伸びました」

「徹子の部屋」まさかの映画化を構想中

その後は、同局の人気番組「アメトーーク!」に取り上げられたことや、ボビー・オロゴンが出演した回などがきっかけで、番組は若者にも知られるようになった。ボビーの回は、終始おちゃらけた態度を取っていたボビーに、黒柳が激怒して番組で公開説教を始めたことが“伝説”になった。

「『徹子の部屋』は基本的にノーカットで収録していますが、このときは途中でさすがに私がいったん止めました。『徹子さん、ここまでお説教ばっかりですよ。撮り直しましょう』と提案したんです。ところが、黒柳さんが『このまま撮影して、そのまま放送しましょう。その方がボビーさんのためにもなるし、見る人のためにもなるはず』とおっしゃって」

周囲が困惑するなか、撮影は続行され、ボビーも最後には態度を改めた。放送されたこの回は話題になり、2005年の最高視聴率をたたき出した。

「黒柳徹子はこんなにも番組やゲストに真摯に向き合うんだということがよく表れた回になって、結果として、いい宣伝になりました」

黒柳徹子の素顔はまだまだPR不足

PR活動にも力を入れてきた。田原さんが番組にかかわった当初は、ポスターもグッズもなく、番組を担当する広報スタッフもいなかったが、会社に掛け合って、それらすべてを整えた。また、視聴者の声も大切にしている。局の窓口に意見や感想の電話がかかってくると、田原さんが直接折り返して話を聞くことが多いという。

局内にPRするために、番組収録に使っているセットをドラマなどに貸し出すというコラボも仕掛けた。社外へのPR活動の一環で、展覧会やコンサートといった番組に関連したイベントも定期的に開催し、いずれも好評を博している。さらには映画化も構想中だという。

ただし、黒柳徹子の素顔については、まだまだPR不足と田原さんは感じているようだ。

「どうも黒柳さんは気難しい人のように思われている。本当はそうじゃないんですよ。好奇心が旺盛で気さくで、それこそ“トットちゃん”そのままのような人。

ある日、黒柳さんが深夜営業のパン屋さんに行ってみたいと言い出して、撮影でもないのに六本木から中目黒まで、みんなで歩いて行ったこともありました。他のお客さんと同じように並んで、カメラを向けられたらピースして。やっと食べたら食べたで『あんまりおいしくはないのね』って言ってましたけど(笑)」。

そんな黒柳の個性が人を惹きつけ、番組は2020年で放送開始45周年を迎える。

「番組作りの基本は何も変えるつもりはありません。“おおいなるマンネリ”を大切に、これからも、ゆったりとトークを楽しめる番組をお届けします」

 

田原さんが講演した学校法人先端教育機構 社会情報大学院大学は、コミュニケーション戦略のプロフェッショナルを育成する専門職大学院。企業や官公庁の広報担当者や情報担当役員等の院生が、実践的な広報・情報戦略を構築することを目指す。教員は実務経験でたくわえた知見と教員としての指導力を兼ね備えた実務家教員が8割だ。ゲスト講師も豪華で、NEC取締役会長・遠藤信博氏、日本生命代表取締役会長・筒井義信氏、日経ビジネス編集長・東昌樹氏ら招いたゲスト講師は2年半で200人を超える。