なぜ「罪の意識」を感じる人と感じない人がいるのか?

2020.01.31

社会

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全生庵の平井住職から禅の心得を学びながら、仕事や日々の生活をより良くおくるための術を探る本連載。今回のテーマは「罪の意識」です。

 

2018年6月、日本中を震撼させた東海道新幹線車内殺傷事件。すでに無期懲役の判決が出ていますが、公判で犯人は反省の気持ちを述べることはありませんでした。最近起きた理解しがたい事件のひとつです。

 

ここ数年は煽り運転が横行し、日常においても歩きスマホなどが目に付きます。ネット空間では誹謗中傷を見ない日はありません。程度の大小はあれ、当事者たちに共通するのは行動を押しとどめる「罪の意識(=罪悪感)」が無いということです。なぜ人によって「罪の意識」を感じる人と感じない人がいるのでしょうか。「罪の意識」を考えます。

「罪の意識」に自覚のない人々

ひと言で「罪の意識」といっても、いろいろな感情があります。

例えば法に触れる犯罪などに対する後悔や、他者を救えない自分に対する無力感。あるいは何もしていないことへの焦りや自分への嫌悪感。ほかにも恵まれていることに後ろめたさを感じたり、家族やパートナーが犯した過ちに対して「罪の意識」を感じたりすることもあるでしょう。

そして不思議なことに、同じことでも人によって「罪の意識」を感じる人と感じない人がいます。

日常で目にしそうな例でいうと、店先で人の傘をひょいと盗っていく人や、歩きスマホをする人などは罪の意識が希薄といえるでしょう。

歩きスマホはまだマナーの範ちゅうですが、傘を盗むことはもはや犯罪です。それでも「これぐらいならいいだろう」と何気なくやってしまう人と、絶対いけないと思う人がいる。この違いは何でしょうか。

例えば傘を盗む人は、自分も傘を盗られたことがあるという経験から“復讐感情”で誰かの傘を盗ることで心の埋め合わせをしているのかもしれません。もしくは単純に傘を忘れた、でも自分は濡れたくないという欲が「罪の意識」よりも勝っているのかもしれません。あるいはルールを犯すことによって得られる快感を求めているのかもしれません。

また、ネットの世界で行われているような誹謗中傷の場合は、匿名性が垣根を低くしているのでしょう。あるいは正義を振りかざしているような気持ちがして、自分が偉くなったような自己陶酔感もあるのかもしれません。

いずれにせよ、「罪の意識」とはまず「悪かったな」と自覚することから始まります。それがなければ「罪の意識」はそもそも芽生えません。

自覚できるかどうかというのは、本人の資質にもよりますが、生まれ育った環境によるというのも大きいでしょう。

人とのつながりが罪を抑制する

例えば小さい子が、欲しいお菓子を無意識に店の棚から取ってしまことがあると思います。それを親に叱られて、ちゃんとお金を払わないといけないんだと認識します。そういう認識が積み重なってきて、やっていいことと悪いことの“限度”みたいなものがわかってくる。そういう土壌があるから自制心も培われていくわけです。

私が修業時代によその寺にいたころは、近くの学校から「ひと夏置いてください」と先生が生徒を預けに来ることがありました。そういう生徒はちょっとケンカっ早かったり、すぐ校則を破るといったことが多い(笑)。寺に預けられるのは、ここでちゃんと過ごしたら退学を停学にしてやるというような救済措置です。

こっちは一日中、動き回って野良仕事みたいなことをしていますから、朝はたたき起こして、手伝いやら食事の仕方やらで一日中怒るわけです。そうすると、寺を出ていくころには素直になっていく。そうやって“構ってやる”というのが大事なんです。

誰にも構われないまま育っていくと、自分は世の中から見られていない、ちょっと悪いことしただけでは叱ってもくれない。じゃあ、もうちょっとやってみようか……と罪をエスカレートさせていく人が出てきます。

人間は一人しか存在しないという孤独より、集団の中で孤立することの方がより一層の孤独を感じます。孤独の深みにはまっていくなかで自分が属する社会とのつながりをあきらめた先に、東海道新幹線車内殺傷事件の犯人のような人間が生まれてしまうのでしょう。

「罪の意識」を育むのに重要なのは、親をはじめとした保護者や自分が属するコミュニティの中で、やっていいことといけないことを認識していくことです。それがゆくゆく、罪を抑制することになります。

無力は罪?

“やってはいけないこと”以外にも、人はときに無力感を「罪の意識」として感じることがあります。

例えば、東海道新幹線車内殺傷事件では被害女性は公判で「助けてくれて亡くなった男性への罪悪感も強く感じています」と苦しい胸の内を明かしました。

ほかにも、家族を亡くし、「自分に何かできることがあったのではないか」と考えてしまう方もおられるでしょう。

それらは、無力な自分によって成し得なかった“後悔”であり、「罪の意識」として人の心に残ることがあります。そういった想いというのは忘れることはなく、抱えていくのはとてもつらいものです。

しかし、過ぎたことを変えることはできないので、次にどうするかを考えることしかわれわれにはできません。今すぐ何かをしなければならないということではありませんが、近しい人たちに何かあったときにその経験を生かしていくしかないのです。

ただ、そういう「罪の意識」は、無理に消す必要性はないと私は思います。

仏教では心を8つに分けて「八識(はっしき)」といいます。表面上の六識の下に深層心理として「未那識(まなしき)」「阿頼耶識(あらやしき)」というのがあり、最も深いところにあるのが「阿頼耶識」です。「阿頼耶識」は「蔵識(くらしき)」とも呼ばれ、文字通りあらゆるものが詰まっています。

八識(はっしき)

仏教における意識作用の8種を指す。「眼識(げんしき)」「耳識(にしき)」「鼻識(びしき)」「舌識(ぜっしき)」「身識(しんしき)」「意識(いしき)」「未那識(まなしき)」「阿頼耶識(あらやしき)」などがある。

「阿頼耶識」には「業力」と呼ばれる“行いの力”も収まっており、心で思ったこと、口で言ったこと、身体で行ったことすべてが「業力」となっていきます。それらが自らの運命を生み出していきます。

だから、否定的な気持ちを意識に持ち続けていると、そちらの方に流れていってしまうことがあります。例えば「絶対緊張してはいけない」と思うと緊張する、「不幸になりたくない」って思うと不幸になる、といったように。

「罪の意識」は大切なものですが、「罪の意識」にとらわれていてはいけないこともあります。大事なのは意識を肯定的に向けること。「緊張してはいけない」ではなく「楽しもう」、「不幸になりたくない」ではなく「幸せになりたい」と思えばいいのです。