寺で修行をしたら罪は清算できるのか? 坐禅をする意味

写真:片桐 圭

社会

寺で修行をしたら罪は清算できるのか? 坐禅をする意味

0コメント

平井住職が若いときに修行したお寺には、改心のために連れてこられる非行少年がいたそうです。ひと夏を通して彼が心を入れ替えることができたかは定かではありませんが、最近でも罪を犯した有名人が自粛中にお寺で修行してその後復帰……という話は耳にします。なぜ人は、罪を犯したときに寺で修行するのでしょうか。今回は、“罪を償う”ということを考えます。

寺で修行するということ

私が修行時代にいた龍澤寺(静岡県三島市)では、夏になると、悪さをしたために学校から預けられる高校生がいました。本当は退学ものだけど、寺でひと夏過ごしたら停学で許してやる、というような。世間では寺での修行は厳しいものと思われているようですね。

私も大学までは普通の生活をしていましたので、修行を始めたことは身体が慣れるまではそれは厳しいものでした。夏は暑いし、冬は寒い。自分の部屋が無い、外と連絡を取ることもできない。テレビも無いから外からの情報も無いなど、そういう意味では刑務所に入れられたような気分です。そのうち身体が慣れてくれば、心の状態も落ち着いてきます。そこで初めて、やらされている感というか我慢して修行している感覚が無くなり、初めて修行になります。

寺に来た高校生たちも外界と遮断されてしまえば悪い友達と連絡が取れませんし、毎日こちらと同じように規則正しい生活をさせるので、次第にちゃんとしてきます。大体2週間ぐらい経つとみんな素直になりますね。世間で考えられている“寺修行”は、そういうイメージかもしれません。

仏教には善も悪もない

人が何か悪いことをしたときに、性根を正すために寺修行をするのはわかります。しかし、それによって“罪を償う”ことにはなりません。

「罪」という概念は宗教によっても異なり、例えば神道だと罪は“穢れ”ともいわれ、キリスト教では「人は生まれながらに罪人(原罪)」だとされます。罪(=良くないこと)が明確に存在しているイメージです。

仏教では「人は善でも悪でもない」と考えられています。そのときの環境や状況によって取った行動のひとつが社会的に“罪”とされるだけであって、それに良いも悪いも存在しないというのが仏教的な原論です。

仏教には「因果」という言葉があります。これは単純に良いことをしたら良いことが起きる、悪いことをしたら悪いことが起きるという意味ではなくて、何かをすれば結果として必ず何かが起きるということです。結果に対しては責任を負わなければいけません。責任とは何かというと“結果を受け入れる”ということです。結果を受け入れて、その後どうするかは自分次第。

例えば刑法に触れるような罪を犯したとします。裁判を経て刑が決まり刑務所に入りました。その後、刑期を終えて出所しました。それで罪は無くなるでしょうか? 無くなりません。

他人を傷つけたり、損害を与えたりした事実は無くなりませんし、何かをすることによって罪を穴埋めするようなこともできません。罪をどう受け止め、どんな行動をとるかは自分自身で決めるしかないのです。

戦国時代の武士の“罪滅ぼし”

禅宗は、日本では武士に受け入れられることによって広まっていきました。なぜ武士だったのかというと、「罪を憎んで人を憎まず」という考えが強かったからだと思います。

戦国時代の武士や大名は“戦”を生業にする代わりに、自分の子どもの一人を出家させるということをしました。あるいは寺を建てたり、寄進したり。出家させるのは子孫を残すという意味もあったでしょうが、こういった行為は武士という生き方に対する彼らなりの“罪滅ぼし”だったのでしょう。

このように、“罪を償う”とか“贖う”といった行為は、何かをすることで自分の心のバランスを取るためのものだと考えます。神道でいう“禊(みそぎ)”がそれにあたります。ただし、最初に言ったようにどれも罪が無くなるわけではありません。そういう意味では仏教は突き放しているのかもしれません。

自分は“無”であることを知る

もし私のもとに償いの意味を求めて来る方がいても「寺で修行しても償うことにはなりませんよ」と言うだけです。「周りに言われて来ました」というならなおさら帰った方がいい。

しかし、自分を変えたいといった意志があって来るなら、修行にも意味があるかもしれません。例えば、坐禅は自分を守っている“殻”を壊すことを目的に行います。

人間は学歴や教養、社会的ステータスなど、それぞれ“自分の殻”を持っています。子どものころからの教えや教育によって殻は固くなり、それがまるで“自分”であるかのように思えます。しかし、それが壊れたあとには何もありません。本来、自分自身というのは“無”なんです。何かがあると思っているから、誤解や悩みが生じるのであって、逆に言うと、“無”であることは自由ということでもあります。

坐禅をする際、私たちは自分のそんな“殻”を壊したい。自ら作った“自分”なんていう小さな殻に収まってはいけないと意識することは、例えれば空から小さな自分を見下ろすような“客観視”であるともいえます。

罪を犯す人の弱さは極端に責められるものでもない気もします。取捨選択としての間違いということも多い。人の行動の原点は心です。心に何が浮かぶか、ということで行動は変わります。罪のはざまにあるその瞬間、落ち着いて少しでも自分を客観視できれば、行動は変わるかもしれません。