「戦後70年」を読み解くキーワード6

2015.7.10

社会

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安保法制を進める安倍政権が日本の舵を取る70年目において、「戦後○○年」は、どんな意味を持つだろうか? ここに、「戦争」に視点を絞ったキーワードを揃えた。「最後の世代」のメッセージとともに、昨今話題になっている集団的自衛権や靖国合祀の意味を自分なりに見つけてほしい。

[1]太平洋戦争(大東亜戦争)
現同盟国と起こした覇権争い

1941年12月8日~1945年8月15日に日本と米英連合軍が繰り広げた大戦争で、日本が惨敗。犠牲者は数千万人、邦人だけでも300万人以上が命を落としたこの戦いの背景には、アジア・太平洋地域をめぐる日米の覇権争い、そして政治を支配した日本軍部の独走があった。

巨大市場と資源を求め、日本は1930年代から中国大陸の侵攻を強める。一方、これに猛反発する米英は中国国民党政権にテコ入れし、やがて日本軍は苦戦を強いられていく。

戦局打開のため日本は仏印(現ベトナム)にも軍隊を進めるが、米英は石油などの対日禁輸で対抗。これに対し日本軍は1941年12月8日、油田を求めて南方(東南アジア)に侵攻、同時に西太平洋の制海権を握るためハワイ・真珠湾を空母部隊で攻撃しアメリカ艦隊の壊滅を狙った。

奇襲は成功し開戦後しばらくは連戦連勝を続けた日本軍だが、1942年6月のミッドウェー海戦でアメリカに惨敗。これを機に物量に勝る連合軍は反攻に転じ補給が貧弱な日本軍を各地で撃破。同時にアメリカは長距離爆撃機B-29での本土空襲や潜水艦の海上封鎖を強め、最後には史上初の原爆も使用、1945年8月15日日本は無条件降伏を受け入れ終戦となった。

長崎に原爆投下
1945年8月9日、長崎に原爆投下。物量で勝るアメリカに最後はなすすべもなかった。

[2]沖縄戦
今も続く米軍基地問題

太平洋戦争末期の1945年4月1日、アメリカ軍は艦船約1,500隻を結集、18万名の上陸部隊で沖縄本島への上陸作戦を強行。12万名の日本軍守備隊は頑強に抵抗を続けた後、6月末に全滅、民間人の犠牲者も多く、その数は10万人とも24万人ともいわれる。

終戦後、アメリカはこの地を本土と切り離して統治。1952年に日本が独立した後も返還はされず、東西冷戦が激化するなか、極東と東南アジアの中間地点に位置し、当時敵対する中国を望むという絶好のロケーションにある島の重要性は高まるばかり。1960年代に入りアメリカがベトナム戦争に介入すると、極東最大の空軍基地・嘉手納(かでな)など島の基地は、発進拠点として重宝されていった。

1972年に悲願の本土復帰を果たすが、日米安保条約の下、アメリカにとって島の重要性は変わらず、本土での基地返還は進むものの、沖縄では大半が温存。現在でも本島に占める米軍基地の面積割合は2割に達する。

1995年に発生した米兵による少女暴行事件を機に「世界一危険な飛行場」と揶揄される米海兵隊普天間基地の返還問題が急浮上、辺野古への移設が決まるが、「県外移設」を叫ぶ翁長雄志氏が2014年知事に登板、移設問題は混迷を深めつつある。

アメリカ軍の無血上陸
日本軍は水際作戦を行わなかったため、アメリカ軍は無血上陸した。

[3]平和憲法/憲法9条
自衛のための武力保持はOK

「平和憲法」とも呼ばれる現在の日本国憲法は、1946年11月3日に公布、翌47年5月3日に施行された。無条件降伏した日本が、占領軍であるGHQ(連合国最高司令官総司令部)の指示により作成したもので、厳密には旧来の「大日本帝国憲法」の改正版。

「主権在民」「基本的人権の尊重」「平和主義」の三本柱を明示、軍隊保持を認める規定を削除した点がミソ。ただ、新憲法策定の際、GHQの総帥・マッカーサー元帥は、自衛権すら認めず防衛は国連に任すべきと考えていた。だが、これは国家の生存権の放棄すら意味し、もはや独立国とは言い難い。このため日本側は「芦田修正」と呼ばれる追加文を9条の部分に滑り込ませ、GHQ側との”落としどころ”としたらしい。

具体的には、第9条1項、「国権の発動たる戦争と、~」の前に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」を加え、「世界平和追及=侵略戦争の完全否定」を念押し。同じく同2項の「陸海空軍その他の戦力~」の前にも「前項の目的を達するために」の一文を挿入。そうすることで個別的自衛権と自衛用の”武力(=自衛隊)”の保持は認める、とも解釈できるような”曖昧さ”を持たせたといわれている。

[4]自衛隊の創設
今では世界屈指の戦力を保有

GHQの意向を反映し、陸海空軍の保持禁止を掲げた日本国憲法が1947年に施行。東西冷戦が激しさを増すなか、1950年6月に朝鮮戦争が勃発、ソ連寄りの北朝鮮が自由陣営の韓国に侵攻する。

韓国を助けるため在日米軍の大半が朝鮮半島に出動するが、そうなると日本の防衛がおぼつかなくなる。「平和憲法」を旗揚げした日本には、自衛に必須の武装組織が存在しなかったからである。

このため、当初日本の自衛権保持にすら否定的だったGHQの総帥・マッカーサーは態度を一変、当時の吉田茂首相に警察の補助組織の創設を要請、1950年8月、戦車や大砲も装備する約7万5,000名の「警察予備隊」が創設される。

2年後の1952年に「保安隊」に改称された後、1954年に日米相互防衛援助協定が締結、日本自らの自国防衛義務が明文化されると、これを踏まえて同年7月、陸海空からなる「自衛隊」へと発展する。その後、多額の防衛予算を注ぎ込み最新鋭の戦闘機や護衛艦(軍艦)、戦車を保有する世界屈指の”軍隊”に成長するが、歴代政府はあくまでも戦力=軍隊ではなく自衛のための最小限の装備、とのスタンスを貫いている。

警察予備隊
警察予備隊から続く自衛隊は、旧日本軍とは別モノ。

[5]靖国合祀
A級戦犯の合祀に賛否

靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし。複数の御霊を同じ神社に祀る)がアジア諸国との間に軋轢を生んでいる。靖国は1869(明治2)年に建てられた「東京招魂社」が前身で、戊辰戦争以降、内乱・戦争に身を投じ国家のために戦死した約247万の英霊を祀る場所だ。

一方、太平洋戦争に敗れた日本の指導者たちは、大戦争を主導した「平和に対する罪」の名目で連合国による極東国際軍事裁判(東京裁判)に付され、A級戦犯として断罪。計28名が有罪、うち7名が絞首刑となった。だが1970年代に複数のA級戦犯が靖国に祀られると、「彼らの合祀や首相・大臣の公的参拝はおかしい」との批判が国内外から噴出。昭和天皇も不快感を表し1975年11月以降、親拝を中止したとも伝えられる。

ただ、功勲の区別なく祖国のために殉じた神霊を祀るというのが靖国の大前提。加えて、日本政府が彼らの分祀を要請することは、政教分離を定めた憲法にも抵触する。

一方、中国や韓国は合祀に対し強硬に非難し続けるが、両国が不快感を公式表明したのは、合祀が表面化してからかなり後の1980年代半ば頃からで、政治的意図を感じる、との向きもある。

靖国神社

[6]集団的自衛権/安全保障法制
合憲・違憲の根拠を何とするか

2014年7月、安倍政権集団的自衛権の行使容認を閣議決定し、これと合わせ自衛隊の任務拡大を目指した安保法制の一括成立を求め目下国会で論戦に挑んでいる。

だが集団的自衛権は「違憲」との指摘が根強い。政府が「合憲」とする根拠として、まず1960年締結の「日米安保条約」を挙げる。前文で国連が定める個別的・集団的自衛の固有の権利を有する、との内容を表明するからである。

歴代政権は「権利はあるが行使しない」という立場だった。だが5条には、日本の施政下にある領域で日米どちらか一方が攻撃を受けたら、自国の平和・安全を危うくするものととらえて共同対処する、との趣旨が書かれていて、集団的自衛権の範囲は「日本の施政下でかつ米軍への攻撃の場合」との解釈が自然。議論が紛糾している「ペルシャ湾(ホルムズ海峡)」は論外だろう。

一方、最近では1959年の「砂川事件」に関する最高裁判決を御旗に「合憲」と安倍政権側は説く。ただこれも、米軍基地工事反対をめぐる刑事裁判に際し、安保条約や米軍駐留はそもそも違憲との被告側の主張に対し、9条は自衛を禁じず、安全保障を他国に委ねることも違憲ではない、と判断したものに過ぎない。これを「集団的自衛権は合憲」と解釈するには無理があるだろう。