急がば坐れ!~全生庵便り

「武器」は攻撃するためのもの? 守るためのもの?

2018.2.23

社会

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「武器」は攻撃するためのもの? 守るためのもの?

銃規制が進まないアメリカ。2017年にはラスベガスで59人が死亡した史上最悪の銃乱射事件が起き、2018年2月にはフロリダでも多数が死傷した銃乱射事件が起きています。

 

米国内で3億丁とも言われる銃が出回っている現在、自らの安全を守るために銃を持たざるを得ない状況になっているとの指摘もある一方、犯罪の道具に使われており、所有を認めるべきではないとの議論も絶えません。日本に置き換えてみると、一般市民の武器の所持は禁止されているものの、核武装や空母保有など「武器を持つべきか、持たざるべきか」の議論は本格化しています。

 

武器とは、守るためのものか、攻めるためのものか……。この問いを平井住職にぶつけてみました。

自然界の強敵から身を守り獲物を捕るための道具が…

「武器とは何か?」を考えるために、武器の起源を考えてみましょう。武器は歴史に登場したときから、人を傷つけるための道具だったのでしょうか。

旧石器時代までさかのぼりますが、自然界における人間は、マンモスやナウマンゾウ、ヒグマなどの動物と比較すると体の大きさや力が圧倒的に劣る非力な存在。しかし、人間は知恵を使い、石斧や石槍などの道具を用いることで、ほかの動物を相手に優位を保ち、種の保存を成し遂げてきました。

つまり、人間にとって武器の起源は、自然界の強敵から身を守る“手段”であり、生きるために獲物を捕る“道具”だったと考えられます。

しかし、人間は豊かになるために発展を求め、争う生き物でもあります。文明が進化すればするほど、人と人のいさかいごとを解決する手段に武器を用いるようになり、次第に武器は、相手を傷つけ支配するための道具と化しました。

近代に入ると豊かさを力で守る、あるいは獲得しようとする考えは加速し、同時に武器の開発もエスカレート。ついには、核兵器という人類全体を破壊しかねない武器を持つに至ります。

では、武器が生存のための道具から、奪い、支配するための道具となった現代においても、私たちは武器を持ち続けるべきなのでしょうか?

“負の感情”に支配されない心構えが大切

日本では銃刀法が機能していますが、それが解かれると市民の安全は突然脅かされるようになるでしょうか? 自分をはじめ隣人も銃を持っていませんし、そんなに簡単に手に入れることもできません。だから「武器は持たない」方がみんなにとって安全です。

しかし、すでに銃が多くの人の手にあるアメリカでは、今すぐ銃の所有を禁止するのは現実的な解決策にはならないかもしれません。銃が規制され武器を持たなくなった途端、無防備になったと感じるでしょう。不安も増大し、もしかしたら隣人が持っているかも……と思うように。そうなると、逆に「武器を持つ」方が安全となります。

武器も無く、軍隊も無く、核兵器も無い世の中は理想的です。現在の日本は案外近いのではないでしょうか。では、今すぐに自衛隊の装備を解いた場合、核兵器やミサイルなどの脅威から超然としていられるでしょうか。もしも、それができるなら、世界に範を示す立派な態度ですが、日本国民の安全はどうなるのでしょうか。

もし、世界が一斉に武器を手放すことができれば、「武器が無い世の中」という理想は実現されます。しかし、人間は弱い生き物。武器を持たない丸腰の弱者になることよりも、周りと比較し競争優位を考えてしまう。

どんなに平和的な環境ができたとしても、いずれ自らの感情に流され、欲望にまみれてしまうでしょう。アメリカの銃規制が進まない理由も、同じ要素を含んでいると思います。

山岡鐵舟が伝えようとした、武器を持つ人間の心構え

武器を持つことで人は何を得るのでしょうか。武器を持っていれば、不安や恐怖心を抑えることができ、そして同時に、自分が強く、大きくなった感覚も得られます。そういう意味では、銃やナイフといった人を殺めるための道具だけでなく、パソコンやスマートフォン、お金なども現代人にとっては立派な「武器」といえそうです。

いつの時代でも、人間は武器や「武器」を持つ魔力からは逃れられないのでしょう。ただ、使い方次第では、自分に刃が飛んでくることを忘れてはなりません。

激動の幕末を生きた剣の達人で、この全生庵を建立した山岡鐵舟は、生涯で人を斬ったことが無いと言われています。山岡鐵舟にとって、剣は武器ではなく、精神鍛錬の手段であり、争いを無くすためのものでした。

さて、現代人が武器を持つ前提に立つならば、山岡鐵舟が考えていたように、自己研磨を忘れずに、いつ、どう使うのか、という心を修める必要があります。

人間である以上、瞬間的に怒りや嫉妬の情は起こります。これは否定しようがありません。大切なのは、負の感情が沸き起こった次の瞬間に、自分の心と向き合っていかに落ち着かせるか。武器を持っていたとしても、それをどう使うかは人の心の問題です。

その「武器」でどう戦うか

子どもが刀や銃のおもちゃで無邪気に遊ぶ姿を見ていると、戦うのは、人間にとって生きるための本能でもあると思わされることがあります。弱者が淘汰されるのは自然界の掟であり、自ら戦わない存在は消えゆく定めにあります。子孫を生み出して繁栄させるには、戦わなければならないのも事実です。

とはいえ、他人を傷つけ、蹴落とすだけが戦いではありません。誰もが日々沸き起こる負の感情や、欲望と戦っています。

それらと戦う手段として武器や「武器」を持つにも、どう使うかを決めるのは自分です。剣を持ちながら人を斬らなかった山岡鐵舟が伝えたかったのは、まさに武器を持つ人間の“心構え”だったのではないでしょうか。

武器を持ちたいと願う人間、武器を持たないと決心した人間、武器は持ちたくないが持っていないと不安だという人間など、武器を持つか持たないかについての考え方は千差万別です。大切なのは、負の感情に振り回されず、武器を適切に扱う心構えにあると思います。