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【尊徳編集長 談話】言葉は潔白でなければならないのか 言葉狩りについてそろそろ本質的な議論を始めよう

2017.01.10

社会

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文字面を変更、使用不可にすることで問題を処理しようとする「言葉狩り」は、物事に対して本来の意味とはズレた認識を生み、思考停止に陥らせ、日本語の表現力を減退させる可能性も含んでいる。窮屈な状況をわざわざ作りだす日本人は、大事な何かを忘れている……?

電通の「鬼十則」削除は典型的な言葉狩り

電通の新入社員が過重労働によって自殺した問題は、ついに石井直社長の引責辞任にまで及んだ。過労死は通常、労災が認定されるかどうかといった問題にとどまるが、ここまで発展することは、今回の件が異質であることに加え、労働に関する国民意識が相当高まっていることを証明しているといえる。

電通は問題解決に際し、すぐに労働時間の上限を引き下げ、午後10時には本社ビルを全館消灯することを決めた。加えて、電通社員の心得として有名な「鬼十規」を社員手帳から削除することを決定。

「取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは」といった内容が過重労働を助長しかねないという、自殺した社員の遺族からの指摘を受けた対応だが、言葉を削除することで解決されることがどれだけあるだろうか。

キツイ文言が書かれていても、「鬼十則」自体は法律に違反するものではない。それが与える影響は、セクハラやパワハラと一緒で、そこに書かれた言葉によって、当事者が精神的圧迫を感じるかどうかが問題だ。

これだけ有名な言葉だし、感じる人も中にはいるのかもしれない。ただ、仕事をする上では、営業ノルマや”上司の喝”も似たようなもので、それをすべて廃止するようなことになったら、企業経営は成り立たなくなってしまう。

確かに電通に関しては、いきすぎたために自殺者が出たのかもしれないが、労働法が順守されず、過重労働を生み出すような環境を放っておいた電通の企業体質に問題があるのであり、強い言葉を使った「鬼十則」にその要因を見出すのは少し乱暴ではないだろうか。

目に見えるものは批判の対象になりやすい

電通から「鬼十則」を奪ったのは、世間の声だ。そこには、自殺した社員に対する憐みや、原因を作った企業に対する憎しみがある。大組織に搾取される個人の構図ができあがってしまっている。そんな”悪者”電通が、自分たちが正しいといくら言っても、批判は止まらない。収めるには、身を削って是正をアピールするしかないのだ。

過熱した世間というものは”行き過ぎるもの”だが、結果的には、今にそぐわなくなっていたのだと思う。1951年から電通社員の行動規範になってきた「鬼十則」には、それだけ続く精神があったはずだ。しかし、言葉の裏にある精神が理解されず、言葉だけが独り歩きしてしまうのなら、削除、廃止は仕方ないのかもしれない。残念ながら、今回の言葉の削除とともにその精神も廃れていくことになるだろう。

流行語はキレイな言葉でなければならないのか

世間を騒がせたブログ「保育園落ちた日本死ね!!!」が流行語大賞トップ10になったことで、各方面で批判が挙がったこともあった。そこに「日本死ね」という言葉が入っていたことで、賞を取るのにふさわしくないという。これも解釈の仕方が原因だ。受け手がどうやってとるか。

そもそも批判する人たちは、例のブログを読んだことがあったのか、甚だ疑問。文脈で解釈すれば、「日本死ね」の意味が、文字通りではないことはすぐにわかる。それに、このブログタイトルが表彰されたのは、流行ったからだ。別に賞賛しているわけでもなく、内容がそれだけ世間の注目を浴びたということ。かつては政治家の野中広務氏が発言した「毒まんじゅう」が流行語になったこともあったし、キレイな言葉である必要がどこにあるのだろうか。

選考委員の俵万智氏も、Twitterで「『死ね』が、いい言葉だなんて私も思わない。でも、その毒が、ハチの一刺しのように効いて、待機児童問題の深刻さを投げかけた。世の中を動かした。そこには言葉の力がありました」と発言しているし、その通りだと思う。

それを、「『○○死ね』は汚い言葉だからふさわしくない」と目くじら立てるのは、あまりにも浅はかで、ばかばかしいと言わざるを得ない。

言葉を論う前に本質的な議論を

こういった批判は昔もあったとは思うが、知識人が言っていただけだった。それがテレビや雑誌で取り上げられるようになったのは、どう考えてもネットがあるからだ。個人で意見を言える人が増えた。

マスコミが取り上げることで、さらに思考停止した人たちが追随し、本質的な議論や言葉が失われていく。マスコミがそういう意見を取り上げるのは、大衆に迎合しているだけであって、オピニオンリーダーであろうという自負を無くし、影響力を失いつつある今、そういう手段しか取れなくなっていることの証左だ。

なぜ世間は、言葉に潔白さを求めるのだろうか。「障害者」という言葉ひとつとっても、その言葉を使った時点で「健常者」といわれる人たちと区別してることに変わりはない。「害」という文字のイメージが悪いからと、その表記を「障がい者」にしようが「障碍者」にしようが事実に変化は起きないのだ。その事実を差し置いて、言葉だけに過剰反応するのはやめた方がいい。

ただ、問題意識があることは共通しているので、言葉狩りが行われる瞬間には、本質的な議論をするチャンスでもある。いつもそうだが、言葉自体を論う行為には、本質的な議論が無いことが多い。自己満足でやっているように見える。「鬼十則」がダメなのなら、どう変えるべきなのか。「○○死ね」がダメなら何ならいいのか。表面的なことで”正しさ”をアピールするのではなく、その裏にある本質的な議論を始めるべきだ。

政経電論せいけいでんろん

「政経電論」の編集部です。佐藤尊徳(そんとく)編集長の下、若い世代に向けて政治・経済・社会問題を発信しています。イノベーションや働き方改革、北欧型の社会保障、国防、原発、クジラ等に注目中。

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