フレッシュな新入社員が、ようやく会社に慣れ始める5月。上の世代、下の世代問わず、この時期はとかく「世代間ギャップ」に悩まされることがあります。「バブル世代」「氷河期世代」「ゆとり世代」「さとり世代」などと言われるように、世代によってモノの見方や価値観は異なりますが、「生まれた時代が違うから」で終わらせてしまう人も多いでしょう。わかり合うのは簡単ではありませんからね。では、人はどんなときに相手とのギャップを感じてしまうのでしょうか。平井住職と世代間ギャップについて考えます。
自分を叩き壊して自我を無くす
生まれ育った環境が違えば、人はそれぞれ異なったモノの見方をします。また、時代によって音楽や芸術などの流行にも違いがあり、世代間ギャップが生まれるのは当然です。世代間ギャップによる不都合とは、自分と相手の自我がぶつかり合ってコミュニケーション不全になった状態から生まれます。
モノの見方を異にする人とコミュニケーションを取るのは苦労を伴うものですが、それは“自分”があるからです。禅ではよく「無我の境地」といいますが、坐禅を通して自我を無くすのは禅の目的のひとつです。
「自分は自分」だと多くの人は感じていると思いますが、自分とは絵空事。禅の修行に入ると、最初にこの「自分」を徹底的に叩き壊されます。何をやっても怒られる、何を言っても怒られる、とにかく自分を全否定されます。
すると、自己への固執は薄れ、思考が柔軟になり、他人のモノの見方を受け入れられるようになります。「若い世代の考え方が理解できない」「上の世代の考え方はもう古い」と世代間ギャップに不都合を感じている人は、まず自分を無くすことを意識する必要があります。
新入社員は飼い慣らすくらいがちょうど良い
ビジネスシーンにおける世代間ギャップを考えてみましょう。会社では新入社員を育成する現場でよく目にします。新入社員はつい先日まで学生だった右も左も分からない社会人初心者です。そのため、上司に指示を仰ぎます。仕事を理解しようとすればするほど、細かい指示を求めるでしょう。
それに対して、上司は「自分で考えて動いてほしい」と思うことも多いはず。しかし、初めから組織のルールを守りながら自発的にテキパキと動ける人間はそういません。求人の募集要項で「自ら考え行動できる人物」という言葉をよく見かけますが、会社が求める人材とは、往々にして上の世代の考えであり、そこにはすでにギャップが生まれているのです。
そんなとき、上の世代には忍耐が必要です。お釈迦さまも「忍の徳たること、持戒苦行も及ぶこと能わざる所なり」と弟子たちに説法したように、忍耐は何事にも代えがたい結果をもたらしてくれます。
スピードを求められる現代のビジネスシーンでは、じっくりと人材を育成する時間がないのもまた事実。気長に待つのは大変です。しかし、そこは自我を滅して自分の立場に固執しないことです。言い方はちょっと乱暴ですが、“飼い慣らす”くらいの気持ちで、あえて自主性を求めないぐらいがちょうど良いのではないでしょうか。
埋まらないギャップはある
「相手の立場に立って考えてみる」とはよく言いますが、これは頭ではわかっていても“理解はできない”ものです。相手と同じ境遇になることでしかわかり得ない。つまり、組織において下の世代が上の世代を理解するには、会社で経験を積むしかありません。社会人として必要なものが何かを知るには、自分で壁にぶつかり、失敗を重ね、上の世代が通ってきた道を歩んで体得するしかないのです。
禅宗における悟りも修行を積み重ね自分で会得するものですが、一朝一夕にできるものではありません。新入社員が上の世代の立場に立つことは難しいでしょう。
職場でのコミュニケーションを語る際、昔から「飲みニケーション」という言葉があります。お酒を飲みながら腹を割って話し合い、まとわりついた負の感情を発散することができる、コミュニケーションの手段のひとつです。しかし、ここにも世代間ギャップを感じる点はあります。
例えば、職場のチーム5人のうち4人が飲みに行くとなった場合に、残りの一人は行かざるを得ない状況になるだろう、と思ってしまう40、50代は多いかもしれません。ですが、今は社会的に広く多様性が認められ、ハラスメントという言葉に敏感になる時代。「行きたくなければ、行かなくていい」と思う人がいるのは自然なことで、強要はできません。
今は仕事終わりに会社の人と飲みに行く機会が減っていると聞きますし、プライベートを充実させて違う自分になることで自我を洗い流して、まとわりついているものを落とす方法もあります。飲みの席がコミュニケーションだと思っているのも自我ですが、行かなくてもいいと思うのも自我。どちらも正しいのでしょうが、ぶつかり合う以上、ギャップを埋めることはできません。
上の世代に倣えば効率的に学習できる
人が社会人になるまでの工程は、小学校→中学校→高校→大学という川を下ってきたようなもの。選択肢に幅はあるものの、基本的な流れは一方向。向かう先は、社会という名の大海原です。
社会に出れば、それまで一方向だった流れはなくなります。どの方向に向かうかも自由です。しかし、海流のようにところどころに流れはあるものの、基本的には自分の力で泳がなければなりません。社会に出るというのは、あらゆることを自分で考え、自分で責任を持つということでもあります。
だからこそ、先に大海原に出た上の世代の指導やアドバイスが羅針盤になる。上の世代の考えを“押しつけられる”ととらえるのではなく、価値観の違いを出発点に、そこから自分が何を得られるかを考えると建設的です。
剣道や柔道、茶道などの世界を思い起こしてみてください。どの世界でも最初に習うのは「型」です。型は「どうすれば上達するだろう」「どうすれば効率的に学べるだろう」と先人たちが試行錯誤して作り上げ、受け継いできた効率的な学習法。先人の知恵が詰まった宝物です。
会社にも連綿と受け継がれてきたやり方があるはずなので、いきなり自分のやり方を探そうとせず、まずはそれを自分のものにしてから、さらに上を目指し自由に飛び立てばいいのではないでしょうか。その方が合理的です。
世代間ギャップは武器になる
自我がぶつかり合ってコミュニケーション不全になる状態が、世代間ギャップを生みます。では、そんな状態を解決するためには何が必要なのでしょうか? それは、“想像力”です。
親兄弟、夫婦といえども、自分が思っていることを正しく伝えないとお互いに理解はできません。相手に思いや考えを正確に伝えるには、「自分の言葉を相手は理解しているだろうか?」という想像を働かせることが重要です。
想像力を磨くことで、反対に「相手の言葉を自分は正しく理解しているだろうか?」という客観的な視座も獲得することができます。想像力と客観的な視座をお互いに持つことで、コミュニケーションは初めて成立します。そうすれば、世代間ギャップは“違い”という大きな武器となります。
つまり、世代間ギャップを解消する必要はないのです。社会にはいろいろな世代の人がいて、さまざまな考え方を持っている。それが当たり前。互いの違いを認識し、認め合うことができれば、そこから新しい何かが生まれるかもしれません。