日大アメフト悪質タックル問題で明白になった大学の“浮世離れ”という構造的欠陥
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日大アメフト悪質タックル問題で明白になった大学の“浮世離れ”という構造的欠陥

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日大アメフト部の悪質タックル問題について日大側が行った記者会見に、世間は不信感を抱いた。深い反省の色を見せた宮川泰介選手に対し、その翌日行った内田正人前監督と井上奨前コーチの会見は、責任は認めつつも宮川選手の受け取り方に問題があったかのような発言をし、さらには司会を務めた広報も失言。25日には大塚吉兵衛学長の会見も行われたが、内容は薄弱としたものだった。日大はいったい危機管理をどのように受け止めているのだろうか。

広報の耳を疑う発言が示すもの

日本大学という組織の体質を、あれ程わかりやすく見せつけた言葉はないのではないだろうか。

23日、日大アメフト部の悪質タックル問題を受けて内田正人前監督と井上奨前コーチが登壇した会見で、司会を務めた同大広報の米倉久邦氏の耳を疑うような発言のことである。

会見が始まって1時間半が過ぎたあたりから、マスコミ記者に対して質問を制するようになってきた米倉氏が、同じ質問が幾度となく繰り返されているとして会見を打ち切ろうとした。当然、記者たちは猛反発。その中のひとりが、「この会見はみんな見てますよ」と声を上げたことに対して、米倉氏がこのように言い放ったのだ。

「見てても見てなくてもいいんですけど」

筆者は、これまで200件以上の危機対応や謝罪会見のトレーニングを行ってきて、そこには有名大学も十数件ほど入っている。その経験から言わせていただくと、広報担当者が何気なく発した言葉には、組織のカルチャーが反映されていることが多い。

リーダーたちの考え方そのもの

組織を「人」に見立てると、広報という部署は、「頭」を司る社長などリーダーの考え方を、外部の世界へ伝える「口」や「顔」の役目を担っている。常日頃から感じていたことをふとしたきっかけで口を滑らせてしまったり、隠していた不快感が思わず顔に出てしまったりするように、広報担当者が漏らす本音というのは、リーダーの考え方や世界観に色濃く影響を受けている。

要するに、米倉氏が「見ても見てなくてもいい」と言い放ったのは、彼独自の考えなどではなく、日大という巨大組織の舵取りを行っているリーダーたちが、「見ても見なくてもいい」と考えていることにほかならないのだ。

その証左に、「週刊文春」(文藝春秋)が本件の対応について、田中英寿理事長を直撃したところ、「俺、知らないもん、全然」「何を俺が関係あんだよ。部が責任持ってやるんだよ」という当事者意識ゼロの言葉が返ってきている。

25日に催された大塚吉兵衛学長の会見もわかりやすい。頭を下げるわけでもなく、時折笑みをうかべながら「わからない」「知らない」のオンパレード。揚げ句の果てに米倉氏と同様、マスコミの重複する質問に対して「話ちゃんと聞いてました?」などと苛立ちも見せた。2日前の“炎上会見”から学習しようという気もないのだ。

大学は最初から危機管理をする気がない

テレビや新聞には連日のように“危機管理の専門家”を名乗る人々が、「日大の危機管理は最悪」「もっと早くに謝るべきだった」などとワケ知り顔で自説を展開しているが、実はどれもこれもピントがハズれている。

これまで述べてきたように、ご本人たちからすればハナから“危機管理”などを行うつもりなどサラサラない。というより、自分たちの組織にかかわる“危機”だという認識すらないのだ。こういう人たちに「危機管理がなっていない」「初動が遅い」と叩いたところで馬耳東風とういか、何の意味もないことは言うまでもない。

つまり、今回の問題は、日大の危機管理能力云々、対応が後手にまわった云々ではなく、日本最大のマンモス大学における組織内論理と社会の問題意識が悲劇的なまでにすれ違っている、という“大学の浮世離れ”という構造的欠陥によるところが大きいのだ。

一度でも大学組織に身を置いて、危機の対応をした経験がある方ならば、筆者の言うことがよくわかってもらえるはずだ。

大学の不祥事は“実害”に直結しない

大学の危機対応にかかわって驚くのは、民間企業と比べると驚くほど危機意識がないということだ。この意識ギャップの原因は、ビジネスモデルのギャップにある。

ご存知のように、民間企業の場合、不祥事はもちろんのこと、経営陣や社員がSNSなどで炎上をしただけでもブランドの失墜を招き、ビジネスに深刻なダメージを及ぼして大きな損失を招く。

しかし、大学にはこの方程式はあてはまならない。学生による集団強姦など犯罪行為、教員や理事などによる不正行為などなど、過去にさまざまな大学不祥事が報道されたが、その影響で大学が経営危機に陥ったというようなニュースを耳にしたことがないことからもわかるように、大学の不祥事は“実害”に直結しない。

冷静に考えてみれば当然だ。受験生たちは自分の偏差値に基づき、“入れる大学”を探し求めることで精いっぱいなので、1〜2カ月の間、世間を騒がした不祥事にそこまで影響を受けない。在学生も卒業することが大事なので、自分の大学に不祥事があったくらいでは退学しない。つまり、世間が思っている「大学の危機」というものは、入学希望者や授業料という大学の経営にはほとんどダメージを与えないのだ。

この真理を誰よりもよく理解しているのが、経営を司る人々である。もうおわかりだろう、日大で言えば、田中理事長であり、その片腕といわれる内田前監督だ。

世間的には、お二人のことを「無責任」「当事者意識がない」といくら叩かれても意に介さない厚顔無恥な経営陣だと受け取っているがそうではない、彼らは確信犯的にそう振る舞っている。

悪質タックルの指示を内田前監督が認めて真摯に謝罪をしてもしなくても、会見などで大学側の管理責任を認めても認めなくても、組織防衛的にはそこまで大きな影響がない。そのような経営判断に基づいておこなわれたのが、日大の一連の対応なのだ。

日大が見ていたのは世間ではなく文科相

このような話を聞いても、「危機意識がないと言うけれど、ああやって後手に回ってでも会見を催しているのだから、やはり少しは世間の顔色をうかがっているのではないか」と思う方もいるだろう。ただ、大学の危機管理を理解している人ならば、これまでの会見が“世間の批判に堪えかねて催したもの”ではないという事実に気づいているはずだ。

実は日大が大急ぎで、内田前監督らの会見をセッティングした23日の前日、日大の経営陣らが頭を抱えるような“事件”が起きている。

タックルを行った選手の謝罪会見ではない。定例記者会見で、林芳正文部科学大臣が記者たちから「日大の対応が後手に回ったのではないか」という厳しい追及を受けてしまったのだ。

これは文科相という大学教育を管轄する政府責任者の口から“日大批判”をさせようという誘導質問で、記者の世界で言うところの、「向ける質問」。もしこれにのってしまったら夕方のトップニュースは「文科相、日大の対応を批判」になっていたが、文科相はどうにかはぐらかし、「早期解決を望む」 という形式的なコメントでのりきったのだ。

そんなやり取りになぜ日大の経営陣が衝撃を受けるのか不思議に思うかもしれないが、実は彼らにとっては今、マスコミがやいのやいのと取り上げていることなどより、こちらの方が何十倍も深刻な“危機”なのだ。

日大にとって本当の“危機”とは?

先ほども申し上げたように、学生や教職員の不祥事は大学経営に直結しないが、文部科学省へのバッシングは深刻な経営危機を招いてしまう恐れがある。

勘のいい方はピンとくるだろう、「補助金」である。

日本大学には毎年すさまじい額の補助金が国から寄せられており、この権限を握るのは文科相であり、交付条件をめぐって厳しく目を光らせているのが、文科官僚たちだ。彼らを敵に回しても、大学は何のプラスもないどころか、下手をすれば、補助金を削られてしまうリスクがあるのだ。

そういう力関係を踏ふまえれば、なぜ田中理事長の“傀儡”といわれる大塚学長が、「新事実ゼロ」「やらない方がマシ」と叩かれた会見を25日午後3時に催した理由も見えてくる。

その少し前、閣議後の定例記者会見で、やはり日大の対応を記者たちから厳しく追及された林文科相 がこのように言っているからだ。

「ガバナンス発揮の観点から設置者として、理事会において責任を持って対応をして頂く必要がある。速やかに事実の解明、究明が行われることを強く望む」

ワイドショーに出る評論家やコメンテーターたちは、大塚学長の会見は、世間に対して申し訳ないという誠意が感じられなかったと怒っているが、感じられないのは当然だ。学長があの場に出たのは、タックルを命じられたとされる日大の選手や、ケガをした関西学院大学の選手のためではなく、われわれのためでもない。

すべては文科省の顔を立てて、監督官庁へと向けられるバッシングを鎮めるために行っているのだ。

日大の危機管理がなっていないのは、彼らには今回のことを“危機”ととらえられないから。では、なぜとらえられないのかというと、これまでの経験、他大学での事例からも、このような不祥事が入学希望者や授業料の減少などの経営危機に直結しないことを知っているからだ。

続々と上がる内部からの火の手

このような大学という特殊な世界の不祥事対応が適切ではないことは言うまでもない。が、一方でこのような場当たり的な対応でも「どうにかなってきた」という動かしがたい事実もあるのだ。

ただ、個人的には、大学のそのような常識も少しずつだが変わりつつあるのではないかと感じている。

今回、当のアメフト部の選手たちが緊急ミィーティングを行い、渦中の選手を守るための声明文を出す準備をしているという。部の保護者会もそれを支援するとマスコミに表明したほか、日大教職員組合が「適切な対応能力を欠いている」と厳しく非難する声明を出した。

つまり、内部から続々と火の手が上がってきているのだ。

これまで大学経営は、外(社会)からいくらボロカスに叩かれても、のど元過ぎれば熱さ忘れるではないが、時間がたてば何事もないように入学希望者がやってくるというスタイルだった。しかし、今回のように、現役アメフト部員やその保護者、大学職員などが声を上げることで長期戦となり、過去の事例からは考えられないほどの致命的なダメージをもたらす可能性もでてきている。

“崩壊劇”、企業の次は大学の番か

今でこそ、企業が何かにつけて謝罪会見を行い、“危機管理”という言葉があふれかえっているが、1990年代の企業など不祥事を起こしてもネグる(無視する)ことも少なくなかった。“被害者”が何かを訴えても大企業は知らぬ存ぜぬで押し通した。

その常識を壊したのが、2000年代初頭に続発した雪印乳業の集団食中毒や、三菱自動車のリコール隠しなどである。あれらのケースによってわれわれは、“危機”に向き合わないと、名だたる大企業が潰れるほどの壊滅的なダメージを食らう、という“新常識”を植え付けられたのである。

右肩上がりの人口と、国の教育予算で守られてきた日本の大学は、右肩上がりの経済成長のなかで調子に乗っていた1990年代までの大企業とうり二つだ。

世界の常識を変えるには、雪印や三菱自動車のように、多くの人が明日は我が身かと震えるような“崩壊劇”が必要となってくる。果たして、日大もそのような道をたどるのか。それともこれまでの大学同様、半年後には何事もなかったような顔をして安穏と過ごしているのか。注目していきたい。

組織として解体的出直しが出来なければ…

今までの大学の不祥事というのは、個人的(もしくは、サークルなど集団)によって起こされたものが主だった。つまり一部の不届き者が起こした不祥事。大学側は個人的な事件ということで、形式的な謝罪で済んできたのだろう。

しかし、今回の場合は、明らかに大学の指導部が絡み、組織的な隠ぺい(物理的にはないかもしれないが)や、守るべき生徒に罪を被せよう(当該生徒も許される行為ではないが)とした教育機関としては悪質極まりない“事件”である。

記事の通り、学校法人において、監督官庁である文部科学省は、彼らにとって一番気を遣う相手であることは間違いない。とは言え、この一連のアホな対応では、文科省も知らん顔というわけにはいかなくなるだろう。一連の役人の不祥事や、政治家の不祥事が続くことで、政治家も役人も、世論を大きく気にし、媚びなければならない状態に陥っているからだ。

トップ2人を守ろうとすべて内向きの論理で動いたのだろうが、あまりにも世間との乖離が起きていることを自覚して、組織として解体的出直しが出来なければ、総スカンを食った日大が生き残ることはできないだろうと僕は思っている。