大相撲は「女人禁制」のままファンの心をとらえ続けることができるのか

2018.06.11

社会

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写真/Nicolas Datiche

日大アメフトの話題に隠れてはいるものの、数カ月前までは「女人禁制」で注目されていた大相撲。問題はまだ解決していない。時代の流れによって、これまで大相撲を大相撲たらしめていた文化・伝統が揺らいでいる。この先を進むには、どこを向けばいいのだろうか?

日大アメフトの話題で隠れた相撲協会の組織体質

あの喧騒は、一体何だったのだろうか。

世間の興味は今や、日本大学のアメリカンフットボール部の不祥事についてだ。

日大の内田正人前監督、井上奨前コーチ、宮川泰介選手、そして田中英寿理事長に至るまで連日その一挙手一投足が注目を集めている。そして、彼らの言動が厳しく監視されている。謝罪をしても、辞任をしても、その騒ぎが収束することはない。追い詰められれば追い詰められるほど、人は自らの行動を正当化するために弁明を重ねる。結果、綻びが生じる。

だが、恐らくアメリカンフットボールの騒動についても、次のターゲットが見つかれば話題に上ることはなくなるだろう。それは、ここまでまったく同じ構図で組織としての体質上の問題を露呈し続け、半年あまり炎上を重ねてきた組織、つまり日本相撲協会の現状を見れば明らかだからだ。

大相撲を好む人々は、騒動に関係なく大相撲を観続けている。先の夏場所では、国技館は連日満員札止め。そして視聴率も週末は15%前後で推移しており、1年前の稀勢の里フィーバーに沸いたあの頃と変わらない。彼らはこの騒動が原因で大相撲を見放すことはなかった。

ただ、相撲協会は今のところ以前と変わっていない。相撲ファンは不満を抱きながらも大相撲を支えている。このままでは問題は先送りになったまま、大騒ぎをしただけで終わってしまったことになる。

これで、いいのだろうか。

「女人禁制」はまだ決着が付いていない

相撲界の旧世代的な悪しき体質、それは日本社会に通じる部分が多いものなのだが、例えば指導に蔓延る過度な暴力や自浄作用の働かぬ組織構造、利権の確保にしか興味がなく改革を一向に進めぬ協会など言い出せばキリがない。それらの改善は継続して取り組んでいかねばならない問題で、あとは取組を進めていくしかない。だが一つ、今回の騒動で決着が付いていないことがある。そう、「女人禁制」の一件だ。

市長の体調不良という緊急事態であるにもかかわらず、土俵で救護にあたった女性に対して土俵から降りるようにアナウンスした、舞鶴での一件。そして、ちびっ子相撲に女児が参加できなくなった一件。

世の中を巻き込んで一大騒動に発展したのは記憶に新しい。だが結局、大相撲の女人禁制とは、何なのだろうか。ここまでさまざまな論点でその理由や是非が語られてきているので、一度おさらいしておきたい。

歴史を紐解くと、実は女性同士が相撲を取る「女相撲」は江戸時代にも存在しており、戦前に巡業すら行われていたそうである。言い換えると、土俵に上がるという意味での女人禁制は、決して相撲の1200年の歴史の中で継続されてきたことではないのだ。観戦という意味では、やはり江戸時代には女人禁制があり、可能なのは千秋楽のみだった。女性の観戦が完全に認められるようになったのは、明治以降の話である。

では一体いつから、大相撲は土俵に上がってはならないという意味での女人禁制に舵を切ることになったのだろうか。

それは諸説あるが、明治時代に大相撲で伝統を強化する動きの中の一つとして「女性は土俵に上がってはいけない」という説が多く取り上げられている。板垣退助が国技館の建立に伴い、「待った」の作法を定義し、八百長排除の誓約書にサインさせるなどの流れの中で、国技としての相撲が神道とのつながりを強調され、女人禁制に至ったというのである。

そのため、「なぜ土俵に女性が上がってはならないのか」という論拠として取り上げられるのは、女性を不浄と見ていた考え方であり、生理前の女性であれば土俵に上がることができるというのはそういった背景によるものだ。

禁忌は大相撲に“特別感”を生み出す装置

ここまでご覧になられてお感じの方も多いと思うが、要するに女人禁制をロジックで語り、女性が土俵に上がれないということを正当化できないし、また、歴史的にもそのロジックが常に存在したわけでもないということである。

女性は土俵に上がり、相撲を取ってきた歴史もある。そして、そこに従わなければならない絶対的な理由もない。言い換えると、女性が土俵に立つことを拒む理由も、やはりない訳である。

これらを踏まえた上で、現在の大相撲は女人禁制という在り方をどうすればよいのだろうか。

今回の議論の際に相撲協会が示した見解は、先の神事や伝統という論点ではなく、「大相撲の土俵は男が上がる神聖な闘いの場、鍛錬の場」という視点だったという。ただ、本当にそれで良いのだろうか。

»日本相撲協会 理事長談話(2018年4月28日)

女人禁制というのは結局、大相撲が権威を生み出すために創出した制度である。今風の言い方をすれば、女人禁制というのは“特別感”を出すための装置なのだ。

確かに大相撲というのはこうした特別感を生むための装置が無数に存在しており、その多くがロジックでは説明できないものばかりである。

髷(まげ)や廻し、土俵のサイズに材質、勝敗の決め方や立合いのシステムなど、時代に最適化できないまま取り残された伝統が至る所に存在している。そしてその伝統こそが、大相撲特有の特別感なのであり、言い換えると特別感の積み重ねこそが大相撲の文化なのではないかと私は思う。

人の心をとらえてこそ文化は生き永らえる

だが、そうした特別感が楽しめるものであれば良いのだが、あまりにもその見方が「2018年」と乖離しているということであれば考えものだ。

もしかしたら今後、髷や廻しすらも忌み嫌われる時代が来るかもしれない。その姿が“尻を晒す”というとらえられ方をすることもあるかもしれない。事実、外国人に相撲を見せたときにその点を嫌う方も一定の割合で存在する。

女人禁制というのは、そういう類の話だと思う。大相撲というのは文化ではあるが、文化というのは人々の心をとらえなければ生き永らえることはない。これまでは現在の形で伝統を継承することができた。だが、時代は変わりつつある。ファンの多くが中高年であることは国技館に駆けつければ誰の目にも明らかである。

これから大相撲を好きになるであろう人々をどう考えるか

今の人気にあぐらをかき、変わろうとしなければ、大相撲という文化は見放される可能性が非常に高いものだと思う。そして一方で、継承されてきた伝統もまた非常に重要だ。変えるにしても、現在の人気を支えるファンが見放すような改革であってはならない。現在の人気を支える人々と、これからの大相撲の人気を“支えるであろう”人々はまったく別物だ。

今回の女人禁制の議論に関しては、どちらもある程度、納得感のある形での着地点に落とし込まねばならないという意味で、非常に難しいのである。このニュースを聞いたときに私が一番最初に思い、恐らくこの一言に集約されるであろうと感じた「難しい」という感想は、つまりそういうことなのだ。

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