強行採決までのカウントダウン 大論争中の香港「犯罪者引き渡し条例」

写真/Anthony Kwan/Getty Images

社会

強行採決までのカウントダウン 大論争中の香港「犯罪者引き渡し条例」

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香港は「1国2制度」と呼ばれる高度な自治や独立した司法制度が認められているが、香港政府が2019年4月に香港の国会にあたる立法会に提出した「犯罪容疑者の身柄の引き渡し条例」が大きな波紋を呼んでいる。特に中国当局への引き渡しが可能になることから、立法会では民主派と親中派が紛糾し、一時ケガ人も出る乱闘騒ぎとなった。市民の反対運動も拡大し続け、雨傘運動のメンバーや元政府の大物民主化の活動も活発化。香港の国際経済都市としての価値を損ないかねない条例案の行方は。

中国側に身柄を引き渡せるようになる

「身柄引き渡し条例」の正式な条例案は「2019年逃犯及刑事事宜相互法律協助法例(修訂)條例草案(Fugitive Offenders and Mutual Legal Assistance in Criminal Matters Legislation (Amendment) Bill 2019)」と呼ばれる。

中国の通信大手、華為科技(ファーウェイ・テクノロジーズ)の孟晩舟副会長がカナダで逮捕された事件で、アメリカへの身柄引き渡しが行われるかどうかが注目を浴びているが、その身柄引き渡しについての香港版と考えていい。事案によるが、裁判所または香港政府のトップである行政長官の判断で、犯罪人を中国本土、台湾、マカオにも引き渡せるという改正案だ。

例えば、子どもの連れ去りに関して日本はハーグ条約を批准しているが、場合によっては自分の子どもを手放さなければいけないケースもある。今回の条例案の改正もそれと同様に、香港人が不利益を受けるケースも当然出てくる。香港はすでに日本、イタリア、イギリス、アメリカなど32カ国と刑事事件についての刑事共助条約を結び、カナダ、ドイツ、シンガポールなど20カ国と容疑者の引き渡し条例を結んでいるが、今回は引き渡し相手に中国という社会共産主義国家が含まれることが大きな懸念点になっている。

香港の民主派政治家は、「中国共産党に批判的な人や活動家を中国本土に連行できるようになる可能性がある」と修正案の撤回を要求した。批判の高まりを受けて、香港政府も「政治犯は対象外」とし、経済犯罪についても対象としないとしたが、民主派は「刑事事件を勝手に作りあげて、引き渡し要求をしてもおかしくはない」と懸念する。1国2制度といっても、香港の行政長官は中国当局から「身柄を引き渡せ」といわれたら拒否するのは非常に難しいという現実をよく認識しているからだ。

そんななか、台湾で対中政策を主管する大陸委員会は4月26日、2015年に中国で禁書の本を販売したということで約8カ月間中国当局に拘束された「銅鑼湾書店」の林栄基元店長に、1カ月間の台湾滞在を許可。5月14日には2カ月の延長を決定したことも明らかにした。

加えて、もし香港で条例が改正された場合は長期滞在を申請できるとしている。林店長の身柄が引き渡される可能性があるのなら、身の安全を考えて台湾に移り住んでもらおうという人道的措置だ。林店長はそのまま台湾に移り住み、現地で書店を再開する事も視野に入れているようだ。

事の発端は香港人が台湾で起こした殺人事件

事の発端は2018年、香港の学生の陳同佳が台湾で自分の恋人を殺して香港に逃げたことにある。台湾当局は台湾で起こった事件であり、この香港人を殺人罪で起訴したかったが、香港と台湾の間には犯罪人の身柄の引き渡し条例が無いために起訴できなかった。

これには別の伏線もある。2019年1月18日に中国の最高人民法院と香港の律政司(日本で言う法務省)との間で「關於內地與香港特別行政區法院相互認可和執行民商事案件判決的安排(Arrangement on Reciprocal Recognition and Enforcement of Judgments in Civil and Commercial Matters by the Courts of the Mainland and of the Hong Kong Special Administrative Region)」という合意がされた。長い名前だが、全31条からなる民事事件についての中国と香港の取り決めで、お互いの法律システムの維持を確認するものだ。

關於內地與香港特別行政區法院相互認可和執行民商事案件判決的安排の調印式の様子(写真:香港政府新聞処)
關於內地與香港特別行政區法院相互認可和執行民商事案件判決的安排の調印式の様子(写真:香港政府新聞処)

意外に思うかもしれないが、実は香港人は政府も市民も民主的な考えが基本で、1国2制度を形骸化させることは避けたいと考えている。この合意も、1国2制度を維持することを目的に香港政府は法律の穴を防ぐための改正に踏みきった面もある。穴をつかれて法律を形骸化するのでは意味がないからだ。

「身柄引き渡し条例」 は本来、 台湾への犯罪者引き渡しを取り決めるものだったはずが、中国政府の意向で中国への引き渡しまで拡大されてしまった可能性がある。やむを得ずとった方策が市民の大きな反感を買ったことは、香港政府からしたら“誤算”だったといえるかもしれない。

香港に拠点を構える外国企業も懸念

香港に拠点を持つ外国企業も懸念を持ち始めた。香港はイギリス統治下であったため、司法制度は中国本土より透明性が高い。それこそが、世界的企業が香港に拠点を置く根拠のひとつで、香港政府も海外で香港への投資を呼び掛けるプロモーションする際に、独立した法制度を持つことを強みとしてきた。中国の干渉力を強める「身柄の引き渡し条例」は、さすがに中国とのビジネスの関係から親中派が多い財界からも心配する声が上がっているほどだ。

こうなってくると、周りの動きも激しくなる。例えば、民主派の重鎮である李柱銘(マーティン・リー)氏は5月上旬に条例改正案の撤回のためアメリカ、カナダに渡りロビー活動を展開。李氏に同行した民主派の元立法会議員や雨傘運動に参加したメンバーは、米議会の公聴会にも出席した。

さらに香港の元ナンバー2であった陳方安生(アンソン・チャン)元政務長官は、かつて香港政府にいながら親中派ではなく民主派の立場に立つ大物で、ドイツを5月12日から訪問するなど外交活動を活発化している。

また、諮問機関「米中経済安全保障調査委員会(USCC)」は5月7日、「香港は容易に中国当局から政治脅迫の影響を加速度的に受けやすくなり、香港の自治権が侵食され、アメリカ企業にとって安全な進出先という香港の評判がむしばまれる。香港にあるアメリカ企業の経済的利益も損なわれる可能性がある」と指摘。

さらに、香港は中国とは異なる地域として扱うことを規定した「米国-香港政策法(The United States–Hong Kong Policy Act)」内の条項に抵触する可能性もあるとして、香港の扱いが中国の一都市と同じになるかもしれないということ暗示した。1992年にアメリカで制定された「米国-香港政策法」は、通商・経済に関して、1997年の中国返還後も香港を完全な自治がある地域として扱うことを合意したもので、それがなくなった場合、香港の経済的ダメージと国際的な信用が落ちることは必至だ。

米国務省の報道官も「アメリカは条例改正案の行方を注視している」という声明を出したほか、香港の最後の提督であるクリス・パッテンは「法律の穴をふさぐ必要性はない。これは香港の価値や安全などを損なうものだ」と憂慮した。

国際的経済都市としての地位が危ぶまれる香港
国際的経済都市としての地位が危ぶまれる香港

立法会は大混乱。市民デモは大規模化

もちろん、香港市民からも心配する声があがっており、3月31日には条例改正に反対するデモが行われた。主催者である民間人権陣線の発表では、参加者は1万2000人、警察発表では5200人だった。そして、審議が始まった後の4月28日にも再び大規模なデモが行われ、13万人(主催者発表)が参加(警察発表は2万2800人)。前回よりも香港市民の反発が強まっていることがはっきりした。

5月11日に開催された立法会の法案委員会では、民主派と親中派の議員がもみ合いとなり新民主同盟の范国威(ゲーリー・ファン)議員が床に倒れ負傷し、病院に運ばれるなど大荒れの様相を呈しており、今後も混乱が続くのは避けられない情勢だ。

しかし、現実的には立法会では親中派が多数を占めており、強行採決も可能。事の発端となった陳同佳は早ければ10月に釈放される可能性があるため、林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官は7月の休会までに改正を成立させる意向を示したが、それが実現する公算は高い。

2019.05.20更新