三橋貴明が説く 今さら聞けない経済学

生産性向上のミクロとマクロ

2015.3.10

経済

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今回は「生産性」である。企業というミクロレベルにとって、コストカットや生産性向上は常に正しいが、国民経済というマクロレベルから見ると、必ずしもそうはならない。国民経済における生産性の意味を知ってほしい。

マクロレベルから見た生産性向上とは何か?

生産性向上とは、企業にとっては「労働者一人当たりの付加価値の拡大」を意味する。付加価値とは、企業の場合、ほぼ粗利益に該当。労働者の数が変わらず、モノやサービスの生産が増えれば、粗利益という企業の所得が増える。企業の目的は利益という所得の最大化であるため、生産性の向上は常に”善”だ。

それに対し、マクロレベルの生産性の向上は、「生産者一人当たりの付加価値の拡大」と理解して構わない。付加価値とは企業の粗利益であると同時に、所得創出における「モノやサービスの生産」でもある。生産者は働き、モノやサービスという付加価値を生産。顧客に消費・投資として購入してもらい、初めて所得が創出される。所得創出のプロセスにおいて、「付加価値の生産」「消費・投資という支出」「所得の合計」は常に一致する。

GDPは「国内総生産」で、所得創出のプロセスにおける生産の合計。「生産」「支出」「所得」は同額になるため、「生産面のGDP」「支出面のGDP」「分配(所得)面のGDP」の3つは合計金額が必ず同じになる。これを「GDP三面等価の原則」と呼ぶ。

生産者一人当たりの付加価値

生産性が向上し、生産者一人当たりの付加価値が拡大するということは、実は、「生産者一人当たりの所得の増大」とイコールになる。ミクロレベルであろうが、マクロレベルであろうが、生産性の向上は「所得の拡大」を意味することに変わりはない。設備投資、人材投資、公共投資等により生産者一人当たりのGDP(所得)が増えれば、国民が豊かになっているといえるのである。

GDPの拡大とは、経済成長そのものだ。たとえ人口が減少しても、生産性向上が達成できれば、国民は豊かになっていく。国民が豊かになる形の経済成長とは、生産性の向上によってこそ実現可能なのである。
日本の高度成長期、現役世代である生産年齢人口(15歳~64歳の人口)の増加率は、せいぜい1.7%に過ぎなかった。それにもかかわらず、GDP成長率の方は、何と実質値で毎年10%近い水準を維持。当時の日本経済の拡大は、生産性の向上なしでは説明できない。

生産性の向上で豊かになる

先述の通り、生産性の向上は「生産者一人当たりの所得の増大」を意味する。高度成長期の日本は、現在とは異なりインフレギャップの環境にあった。すなわち、国内の総需要(名目GDP)に対し、供給能力(潜在GDP)が不足していたのだ。企業の経営者の視点から見れば、「仕事はあるが、自社の供給力が足りない」という状況。特に人手という供給能力の不足は著しく、高度成長期の失業率は何と1%前後が続いた。完全雇用が成立していたのだ。

仕事はあるが、人手が足りない(それも圧倒的に足りない)。経営者は供給能力の不足を補うため、果敢に設備投資を実施し、人材投資も積み重ね、生産性を向上させる努力を続けた。さらに、政府も東名自動車道、東海道新幹線に代表されるインフラ整備で、企業の生産性向上を後押しした。結果、わが国ではマクロレベルで生産性が向上し、国民が豊かになっていった。

豊かになった国民は、個人消費や住宅投資を拡大した。すると、総需要がさらに拡大し、インフレギャップは解消しなかった。だが、それが良かったのだ。
企業の生産性向上の努力で、国民が豊かになると総需要が拡大する。インフレギャップはいつまでたっても埋まらない。供給能力を高めるために企業が生産性を向上させると、国民の所得が増え、総需要までもが増えてしまう。またもや企業が生産性を高めるべく投資を行い、生産性が向上し、所得が増えた国民が消費や住宅投資を増やす。企業の生産性向上努力が国民の消費・投資を促し、インフレギャップが継続したまま、総需要と供給能力が共に増えていく。総需要と供給能力が追いかけっこを続け、日本は高度成長を達成した。

高度成長期の日本のマクロレベルの生産性(生産者一人当たりの実質GDP)は、常に5%を超えるペースで高まっていった。高度成長期の生産性の向上率を知れば、現在の人口減少(およそ0.25%のペース)など、生産性向上で軽くカバーできることがわかる。総人口が多少減ろうとも、生産性を高めれば経済成長は余裕で達成できるのだ。

デフレ期の生産性向上

問題は、現在の日本が、供給能力が総需要を上回る「デフレギャップ」の状況にあることだ。デフレギャップを抱えた需要のない国が無闇に生産性を高めてしまうと、コストを掛けないという手段をとるため、労働者が不要という話になってしまう。すなわち、失業率が上昇する。失業者は消費や住宅投資を減らすため、デフレ期の生産性向上はデフレギャップをむしろ拡大してしまう。

無論、企業というミクロレベルで見れば、生産性の向上は常に正しい。とはいえ、国民経済というマクロレベルでは、各企業の生産性向上努力が失業者を増やし、デフレギャップを拡大してしまう。 もっとも、日本の場合は何しろ生産年齢対総人口比率が低下していくため、将来的にインフレギャップ状態に陥ることは確実だ。というわけで、現在の日本政府がとるべき政策は、「将来のインフレギャップを埋める生産性向上を支援するため、公共投資によるインフラ整備を拡大し、現在のデフレギャップを埋める」が最適解であることがわかるわけである。

政治は将来への道筋を示せ

デフレとは、供給が需要を上回ることにより起こる現象。ならば、供給を絞ってモノの不足を起こせばいいのだが、それでは生産が落ちて労働者への分配が少なくなる。それでは本末転倒だ。

現在の日本のデフレとは状況が違うが、世界恐慌時、アメリカのルーズベルト大統領は、ニューディール政策(1933年)で大胆な公共事業を打った。そのとき公共事業だけでは乗数効果(出した財政以上の効果を生む)は上がらず、さまざまな政策を組み合わせて不況対策を行った。

橋がない時代には、橋を架けて、道路を整備して、そこに産業が生まれて……というふうに乗数効果を高められたが、成熟社会においては、それまでと同じような施策では成長は望めない。いくら需要を喚起しても、年金や医療費など、将来への不安があればお金は使わないのだ。

政治とは、需要創造だけが役割ではない(民間ではないのだから)。政治が行うべきは、機動的な財政出動と、現代の価値観にあった将来への道筋(規制緩和を含む)を示して、不安を取り除くことである。