Twitterでイルカの追い込み漁を批判したケネディ駐日米国大使。しかし、かつて米国の小説「白鯨」では鯨を獰猛な敵として描いている。名著を読むと、価値観や文化が変化することを肌で感じとれることだろう。
イルカの追い込み漁を批判したケネディ大使と米国の小説『白鯨』
キャロライン・ケネディ駐日米国大使が、2014年1月18日、和歌山県太地町で行われているイルカ追い込み漁を批判する見解をTwitterで発信した。そこでは、「米国政府はイルカの追い込み漁の非人道性について深く懸念しています」と記されていた。米国は以前からイルカ追い込み漁を批判していたが、このタイミングでケネディ大使がTwitterという公開手段を用いたことが外交常識に照らして異常だ。2013年12月26日、安倍晋三首相が靖国神社を参拝したことと関係していると思われる。「イルカ追い込み漁、首相靖国神社参拝など、日本は米国と価値観を共有できる国なのですか」という疑念を間接的に表明したのだと思う。
もっともイルカや鯨を米国人が保護する対象と考えるようになったのは比較的最近のことだ。米国の作家ハーマン・メルヴィル(1819~91年)の名作『白鯨(モビー・ディック)』(1851年)に登場する白いマッコウクジラは悪の権化だ。『白鯨』は、1956年にグレゴリー・ペック(エイハブ船長)が演じる映画にもなっている。現在の米国人は、58年前とは、イルカと鯨についてまったく異なる価値観を持っているのだ。
『白鯨』は、イシュメルという名の主人公が語る白鯨と戦った男たちの物語だ。エイハブ船長は、モビー・ディックとあだ名される白鯨に片脚を食いちぎられ、鯨の骨でできた義足をつけている。エイハブと部下たちは、この世の悪がすべて凝縮されている白鯨への戦いに挑む。白鯨に対する復讐を遂げることはできたが、白鯨はキャッチャーボートを食いちぎり、捕鯨船を破壊して沈め、イシュメルを除く全員が死亡するという筋書きだ。白鯨の恐ろしさが迫力のある筆致で描かれている。
文化は時代で変化するもの
<鯨は斜めに背を下にし、噛みつく鮫と同じ姿勢で、ゆっくりと、味わうように、ボートの舳をすっぽりとその口に啣え、巻きこんだ長く狭い下顎を高く空ざまに巻き上げ、一本の歯を櫂座の一つにひっかけた。顎の内側の青みがかった真珠色の白いものは、エイハブの頭から六インチのところにあり。しかもそれより高く届いていた。この姿勢で、白鯨はいま、残酷なじゃれ猫の鼠にするように、そのか弱い杉材を振り動かしていた。驚きの色もなく、まじろぎもせぬ目でフェダラアはそれを見つめ、腕を組んだ。が、例の虎黄色の顔をした漕手らは先を争って転けつまろびつ倒けつ転びつ、艫の隅へ逃げ込んだ。>(下巻480頁)
そして、白鯨はキャッチャーボートを噛み砕く。
<そしていま、弾力性に富む両の舷縁は、鯨がこの悪魔のようなやり口で破滅の艇を弄ぶのにつれ、内に外にたわみゆがんで、しかも彼の体躯はボートの下に隠れているから、舳はいわばほとんど彼の口のなかに入ってしまった現在、舳から銛を擲げることは思いも寄らず、同時に他のボートも抵抗すべからず不意の危急に臨んだときと同様、われにもなく茫然と手を束ねていたから、かくて執念一途のエイハブは、目指す仇敵のかくも間近にありながら手出しもできぬその無念さ、憎さも憎いその顎のうちに、生きながらも戦うすべもなく置かれた口惜しさ、苛だたしさに狂気のごとく猛り立って、寸鉄も帯びぬ赤手にその長い牙を掴み、その捉えた櫂座から捩ぎ離そうと必死に試みた。こうして無益の努力をしているうちに、顎は彼からするりと離れた。脆い舷が内側にまがり、砕け、ばりばりと音をたてたとき、両の顎は絶大な鋏のごとく、後方へすべりながら、艇を真二つに噛み割って、一対の残骸が波に漂うその中間の海面に、固く閉じられて浮かんでいた。>(下巻480~481頁)
21世紀の米国人が抱く”かわいい鯨”からはかけ離れたイメージだ。ストーリーとともに当時の捕鯨、鯨、イルカをめぐる情報が興味深い。イルカや鯨は財産として重宝されていた。
<ニュー・ベドフォードでは、父親はその娘に嫁入財産として鯨を与え、姪たちには銘々に数頭の海豚を分与するといわれる。立派な婚礼を見ようと思ったらニュー・ベドフォードへ行かねばならぬ。どの家にも油が貯蔵してあるから、鯨脂の蝋燭は、夜ごと夜もすがら、ひとびとの身の丈ほども、ほしいままに燃えつづけるというのだ。>(上巻95頁)
米国人が、捕鯨やイルカ猟を批判してきたら、メルビルの『白鯨』に関する話しを詳しく紹介して、「いったい、アメリカ人の鯨観、イルカ観はいつどのように変化したのでしょうか。文化は変化するものです。ある時代の特定の文化を、他の民族に強要することは止めた方がいいと思います」と伝えれば、説得力が出る。