企業はなぜ間違うのか<作家・江上 剛>

2016.7.11

企業

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1997年に起きた未曾有の企業不祥事、第一勧銀総会屋利益供与事件に際し、渦中にいながら混乱収拾に尽力した作家・江上剛氏。組織の闇を間近で見てきた江上氏は、昨今の企業不祥事に何を思うのか。企業が間違いを犯す真の理由に迫る。

間違いだらけの日本企業

最近、日本企業はろくなことがない。アベノミクスで目いっぱい政権から応援してもらっていながら調子が良いのかと思ったらなんとも情けない。

シャープは台湾の鴻海(ホンハイ)に支援を求めるし、東芝は不正会計でドル箱のメディカル子会社(東芝メディカルシステムズ)を売却する始末。なんとか世界に伍して戦っていたと思っていた自動車メーカーでは、三菱自動車やスズキの燃費データ偽装が発覚。

内需産業はどうなのかといえば、セブン&アイ・ホールディングス、大戸屋、大塚家具などでは内紛勃発。いったいどうしたの?

ちょっと間違いが多すぎやしませんか? こんなことではいくらアベノミクスを吹かしても空吹かしになるだけで日本は前へ進まず、排気ガスにまみれて窒息してしまうだろう。

企業による謝罪の本質

企業はなぜ間違うのか? そりゃ間違うさ。なぜって人間の組織だから。人間が間違うのと同じように間違うものだ。

しかし、人間の間違いと企業の間違いは決定的に違う。それが、企業が間違う主原因だと、私は考える。その違いはただ一つ。企業は反省しない。だから間違いを繰り返すということ。それだけ。

そんなことはない、テレビを見たら、毎週、どこかの社長が頭を下げて「すみません」と謝罪しているじゃないかと言われるだろう。その通りだ。企業は反省しているじゃないか……。あえて言わせてもらえば、あれは反省しているのではない。とりあえず謝罪しているだけなのだ。

反省とは、わが身の行いを省みること。孔子は「吾日に三つ吾が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交はりて信ならざるか。伝へられて習はざるか。」(論語新釈・宇野哲人著・講談社学術文庫)と言う。他人に真心を尽くしたか、友達に嘘偽りを言ったり、したりしていないか、先人から学んだことを絶えず復習しているかという意味。これが人の道の反省だ。

この孔子の言葉から「三省」という熟語が世に知られるようになったが、真の反省とは、毎日毎日、倦むことなく三回もわが身、わが心を省みて、道を外していないかと検証することなのだ。本当に苦しく、辛く、嫌になるようなことなのだ。ところが企業は、不祥事が起きてもただその場しのぎで頭を下げ、責任者となってしまった”運の悪い”人の首を取っかえてしまうだけだ。

間違い続ける東京電力

実例を挙げてみよう。東京電力の福島第一原発事故の例だ。いまだに解決の道は遠く、多くの人が避難を余儀なくされたり、風評被害で苦しんでいる。

その原発事故について先日、恐ろしい発表があった。「炉心溶融(メルトダウン)」となった実態を首相官邸の指示で隠蔽していた事実を東電が認めたのだ。

日本は、訴訟大国ではないので、今後、この隠蔽に対してどのような訴訟が起こされるか予想はできないが、もしこれがアメリカなら「炉心溶融の発表が即座に行われていれば、もっと早く避難が可能であり、放射線被害を少なくできた」と膨大な数の訴訟が起こされるのではないだろうか。

福島第一原発事故では、当初から東電は何度も頭を下げた。責任者の首を切った。そして事故の検証は東電も政府も行った。

しかし、この「炉心溶融」隠蔽という重大な事実は明らかにされなかった。たまたま東電の対応に不信感を抱いていた新潟県が、事故の再検証を行ったために判明したのだ。

東電は、過去も現在も二度と原発事故を起こさないと何度誓ったことだろうか。それなのに、最も重大な事実の一つを隠蔽し続けていたのだ。そしてあろうことか、誰が、どのように隠蔽指示をしたのかということは、今となってはわからないし、今後再調査する考えはないという。これで反省していると言えるだろうか。

原発は、世界一厳しい基準で再稼働が可能かどうかを審査すると政府は自信を持っていうが、設備のチェックのみで、原発を動かす”人間や組織”への信頼度のチェックはなされない。東電の「炉心溶融」隠蔽の事実を突きつけられると信頼度を厳格にチェックしなければならないのは原発を動かす人間や組織ではないだろうかと考えてしまうのは、私だけではないだろう。

このような「謝罪はするが、反省しない」企業姿勢は、決して東電だけではない。どの企業も同じだ。この姿勢がある限り企業は間違いを繰り返すのだ。

それでも組織は反省しない

私が勤務していた第一勧銀(現みずほ銀行)は、1997年、総会屋という反社会的勢力に利益供与をしていたということで11人もの経営陣が東京地検に逮捕(1人自殺)されるという未曽有の不祥事を起こした。第一勧銀は、不祥事を謝罪し、経営陣が責任を取って辞任した。

ところが二度と不祥事を起こさないと謝罪会見では誓ったが、事故の検証、そして真の反省はしなかったと言っていいだろう。私は、事件の渦中にいたからそのことがよくわかる。真の反省をしているならば、不祥事について調査した全容を公開するべきだったのだが、それをしなかった。

不祥事の後、就任した経営陣も全容公開を望まなかった。私自身も同じ考えだった。なぜか? 全容を公開すれば、さらに多くの人たちが責任を取らざるを得なくなるからだ。組織ぐるみの不祥事であったため、おそらく後任の経営陣を決めることができなくなり、第一勧銀は、その時点でどこか他の銀行に吸収されてしまっただろう。

結果として新しい組織、経営陣には、不祥事の教訓はまったく引き継がれず、誰もが忌まわしい記憶を忘れようと努力するだけで真の反省をすることはなかった。

あるとき、私が後任の経営陣に不祥事の反省を迫ると「いつまでぐずぐず言っているのだ。時代は変わったのだ」と一蹴されてしまった。私は黙るほかなかった。これは東電の姿勢と同じではないか。

「三省」しなければいずれ歴史の敗者に

第一勧銀はその後、興銀(日本興業銀行)や富士銀行と経営統合し、みずほ銀行へと形を変えていくが、オンライン事故や反社会的勢力への融資など不祥事を繰り返す。それはすべて真の反省を行っていないからだ。

三菱自動車、東芝など最近不祥事を起こした企業は、大抵過去にも不祥事を起こしている。しかし真の反省を怠ったために何度も繰り返してしまうのだ。

不祥事を起こした企業は人間と同じように「三省」する姿勢が必要だ。不祥事を謝罪して、責任者の首を据え代えて、それで終わりではない。

不祥事を冷徹に検証し、全容を公開し、それを次世代に確実に引き継ぎ、毎日、毎日「三省」することだ。これは本当に辛い。しかしそれをしなければ企業は間違いを繰り返し、やがて社会から見捨てられ、歴史の敗者となるだろう。