「東風吹かば においをこせよ 梅の花 主無くとも 春な忘れそ」。
政争に敗れ、都から防人の地太宰府に流された英才、菅原道真公。往時を詠んだ句は風雅の余韻を残す。しかし、追放の恨みは大きく、亡き後に続いた凶事を鎮めるため、彼の人は神として、太宰府天満宮に祀られた。日本における「天下り」の原型だ。平安の御代から続くこのシステムは、またも厳しい批判に曝されている。何が問題なのだろうか。
出世競争が作り出した天下りの歪んだ解釈
天下りとは何か。【1】(神や天人などが)天上から地上におりること 【2】官庁から民間会社へ、または上役から下役へ出される強制的な押し付け・命令 【3】高級官僚が退職後、勤務官庁と関連の深い民間会社や団体の高い地位につくこと――大辞林はこう定義している。
一方で歴史的に見れば、天下りとは道真公に典型の通り”祀り”である。権力闘争に敗れた敗者に、一定の処遇を行い、恨みや反抗を和らげる手段だ。
現代であれば、中央官庁における出世競争がそれだ。東京大学を頂点とする学歴レースの勝者が、目指すのが国会公務員一種試験合格、いわゆるキャリア組としての次官レース。しかし、ピラミッドの頂点の席は一つ。そのほかは負けが決まった時点で、涙を呑んで去るのがこのゲームの暗黙のルールだ。
その受け皿が公益法人や民間大手。天下り先が用意されていることで、身分と老後の生活資金が保証されており、エリートは安心して競争ができるわけだ。
しかし、わずかの間に天下り先を渡り歩き、高額の退職金を受ける”渡り”など、あまりの厚遇ぶりと、出身官庁とのパイプによる利権誘導などが批判され、天下りには、透明性の確保と、”2年以内に利害関係のある企業等への再就職の禁止”など段階的に一定のルールが課せられた。今回の文部科学省のケースは、これを逸脱し、次官を含めた組織ぐるみの点が、問題とされたのだ。
突っつくと面倒な天下り予備軍
とはいえ、「天下りを全廃したら、公務員の給与負担で国庫の負担は増える」(財務省幹部)、「役人をいじめすぎると優秀な人材が公務員を避ける」(警察庁幹部)、「文科省の天下りがひどすぎた」(人事院幹部)など、霞ヶ関の生の声にさほど反省の色は薄い。
永田町でも「民進でも財務省出身の玉木雄一郎幹事長代理などは、天下り問題の難しさを承知している。ワーワー騒ぐだけでは、ブーメランになるのでやりたくない」(民進党関係者)と本腰追及とは、程遠い状況だ。
実際、天下り問題に本当にメスを入れるのは簡単ではない。一つは制度的な問題だ。公務員の定年は60歳に設定されているが、キャリア官僚は、同期が次官となれば退職するのが慣行だった。しかし、天下りへの批判が強まったことで、行先がなくなり、実際には、定年まで辞めないケースも出てきている。このため、人事が滞留しているのだ。
この上、さらに厳しく天下りを制限すれば、状況が悪化するだけとの諦めの声もあがる。公務員の定年や処遇など抜本的な改革が必要であるが、一般職の国家公務員だけで、約28万人もいる。特に精密画のような霞が関キャリア官僚の玉つき人事を鑑みると、全体のプランをいじるのはそう簡単なことではない。
もう一つは、政官+マスコミのサロン的な構造だ。霞が関や永田町、さらにこれを取材する報道機関には、見えない糸が張りめぐらされている。学歴レースを勝ち抜いた勝者たちによる先輩後輩等のネットワークだ。
そもそも、大手マスコミは記者クラブという温室内で、政官ともに共存共栄しており、仲間内で一連托生。この生態圏を本気で壊そうとすれば、排除の力学が働くのは言うまでもない。エリートたちが集まった、日本における最大の岩盤であるといえよう。
国民のイメージは「悪」、しかし……
そういう観点で見たとき、今回の天下り問題にはむしろ特異な側面も浮かび上がる。文部科学省の天下りあっせんの責任を取って事務次官を辞任した同省の前川喜平氏は、妹が文部大臣や外務大臣を務めた中曽根弘文参院議員に嫁いでおり、政官ともに強力なネットワークを誇った。この前川氏が辞任したことは、ある意味衝撃的なことでもあったのだ。
さらに言えば、あわせて明らかになった消費者庁の天下り問題は、極めて性質が悪い。
元長官で消費者団体出身の阿南久元長官は在職中に再就職先となる雪印メグミルクと契約し、国家公務員法違反に問われた。また、元長官が別途アドバイザーに就いたPCデポは、高額な解約料で消費者相談が寄せられており、「用心棒では」(民進党井坂信彦衆院議員)との指摘を衆院予算委員会で受けている。
これだけではない。消費者庁に6年近く在籍し、取引対策課など取締り部局を歴任した定年間近の課長補佐が、在職中に訪問販売を行うジャパンライフに求職活動を行い、法律顧問に就任。この件も国家公務員法違反に認定された。その後、ジャパンライフは、特定商取引法違反で業務停止命令を受けた。
上から下までやりたい放題の感さえある。消費者庁という最も新しい役所でさえ、否、新しい役所だからこそ、天下り先という利権を貪ろうと必死だったとも取れる。
しかし、消費者保護のために取り締まりを執行する行政機関が、仮託された権力で自分の退職後の落ち着き先を作り出そうとするのは、いかにも見苦しい。それら企業が、天下り後に消費者問題を起こしている点も怪しげだ。こうしたケースこそ、真相究明を徹底し、厳しく対処する必要があろう。
一方で、天下り自体が問題であるとはいえない。優秀な人材は、ある意味で社会のインフラであり、彼らに生涯プランを提示した上で、国のために思い切り働かせるのはコストと割り切ればいい。天下り先でも、優秀な頭脳と培った経験でさらに活躍するケースもあろう。
ところが、地方公務員を含めた300万人の公務員が再就職先を得ることは現実的には難しい。限られたイスをめぐり、ルール違反や権力を背景とした強要がはびこる。こうなると、社会に対しては逆に負担となるわけだ。
天下るべき人がいる
天下りは本来的に”祀り”であり、超優秀な人材にのみ許されるものである。国の権力に関与したら、自然に与えられる権利ではない。そういう意味で、公務員の考え違いを正さねばならない。宮仕えとは、そもそも楽な立場ではなく、公僕だ。
維新回天を成し遂げたひとり、西郷隆盛はこう言っている。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕抹に困るもの也。此の仕抹に困る人ならでは、艱難を共にして 国家の大業は成し得られぬなり」。
こうした国士こそ、本来的な意味での”祀り”に相応しいのである。