飲酒は是か非か:正しいお酒との付き合い方
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飲酒は是か非か:正しいお酒との付き合い方

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近年、芸能人や政治家など、飲酒に絡む不祥事や事件、事故が後を絶たない。渋谷区ではハロウィーンや大晦日の年越しの時期などに限り、渋谷駅周辺の路上や公園での飲酒を禁止する条例案を審議予定だ。世界的にも健康への関心の高まりを受けて、セレブたちを中心に「禁酒」が広がるなど、酒を取り巻く状況は変化しつつある。果たして、酒は遠ざけられるべきものなのか。どのように付き合うべきか、平井住職と考えました。

日本人にとって酒はさまざまな役割を持つ

日本人にとって酒とは、コミュニケーションの手段という部分が大きいと思います。同じ趣味を持つもの同士なら酒は必要ないかもしれませんが、仕事上の付き合いなどではじっくり酒を酌み交わすことで場を盛り上げ、本音を言い合って仲を深めるわけですね。酒がひとつの潤滑油的役割を持っているのは間違いないでしょう。

そう考えると、座ってゆっくりご飯と酒を楽しむ居酒屋という日本独特の文化も理に適っていると思います。

ほかにも神道では御神酒(おみき)といって穢(けが)れをはらうために神様に供えますし、祝いの席でも結婚式の三三九度や力士が優勝したときの大杯など、酒は要所でさまざまな役割を果たしています。

そんななか、昨今は飲酒について厳しくなっているという印象があります。今は酒の席で酒を飲まなくても許されるけど、昔は許されない空気がありましたよね。私が講師を務める大学からも「生徒たちとお酒は飲まないように」と言われています。学生たちには未成年も含まれますからね。

飲酒がもたらす本音は良いことばかりではない

コミュニケーションの場において、酒は潤滑油的な役割を果たしますが、誤解してはいけないのは、必ずしも本音の場が良いとは限らないということです。

酒の席だから……という理由で多少は許されることもあるかもしれませんが、本音も度を過ぎれば、刃物のように相手を刺すこともあります。そういうとき、「自分が(酒のせいで)自分じゃなかった」と言い訳する人もいますが、それは間違いです。酒によって本来の自分が出てしまっただけです。

最近だと、日本維新の会の丸山議員の「戦争」発言がそうですよね。あれは失言ではなくて、公的な場なのに泥酔によって漏れた私的な本音です。

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余談ですが、当寺ゆかりの山岡鉄舟は飲み比べで七升(約12.6リットル)の酒を飲んだという逸話もありますが、それでもあまり酔わなかったらしいです(笑)。

そういった酒豪でもない限り、泥酔は人を傷つけかねないものとして気をつけた方が良いでしょう。経験則ですが、自分で「酔っ払ってない」と言い始めたら泥酔していると言って間違いありません。

仏教はなぜ酒を禁止するか

仏教では、基本的に酒は飲んではいけないことになっています。「いけないことになっている」というのは厳格に禁止されているのではなく、あくまで自分自身に対する戒めであり、罰則のようなものがないからです。

以前にもお話しましたが、仏教には「五戒」という重要な戒めがあり、それは不殺生(ふせっしょう)、不偸盗(ふちゅうとう)、不邪淫(ふじゃいん)、不妄語(ふもうご)、不飲酒(ふおんじゅ)。つまり、殺してはいけない、盗んではいけない、淫らな性生活をしてはいけない、嘘をついてはいけない、酒を飲んではいけないというものです。

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飲酒自体は悪いことではないけども、酒飲みは必ずといっていいほど酒の上での“間違い”というのを犯してしまいます。それは大きな犯罪や警察の世話になるようなことではなくても、人を傷つけるようなことを言ってしまったり、やってしまったりというのがある。そういうことがあってはいけないので不飲酒という戒めがあります。

つまり、「戒」とは人を傷つけないようにするためのものなのです。

重要なのは酒を飲んで酔っ払った人間が何をしてしまうかということであり、酒自体はモノ、お金、権力と同じで、良いも悪いもない。要は使い方次第です。酒は百薬の長にもなるし、飲み過ぎれば毒にもなるということです。

無愧(むぎ)の者、慚恥(ざんち)の服

ただし、「五戒」というのは実は誰も守れません。

不殺生は肉を使わない精進料理を食べたとしても草木の命を食べているわけですから、厳密に言えば守られていません。不妄語も誰かのためを思ってつく嘘もありますし、本心を隠すために違うことを言ってしまうこともあるでしょう。かろうじて守れるとしたら不偸盗、不邪淫ぐらいでしょう。不飲酒も守れるとしたら全くの下戸ぐらいでしょうね。

「五戒」を守れずとも、酒で失敗をする人は自己反省をしないと話になりません。

お釈迦様が入滅する前に弟子たちに説いた『遺教経(ゆいきょうぎょう)』というお経の中では、戒だけでなく、人様にも世間様にも恥ずかしい、何より自分に対して“恥ずかしいと思う心”を持ちなさい、そうしないと正しい行いが出来ない、というのを強く説いています。

『遺教経』の一節に「慚恥(ざんち)の服は諸(もろもろ)の荘厳に於(おい)て、最も第一なりとす。慚は鉄鉤(てっこう)の如く、能く人の非法を制す。是の故に比丘(びく)、常に当に慚恥すべし」とあります。

「慚恥」とは恥ずかしいと思う心。いろいろあるキレイな服装の中で一番良いのは“恥ずかしいという着物”。恥じるということは鉄のカギのごとく人の悪行を押さえ込む。だから修行者は常に恥を知る心を忘れてはいけない、という意味です。

また「無愧(むぎ)の者は諸の禽獣(きんじゅう)と相異(あいことな)ること無けん」という一節もあります。「無愧の者」とは悪事を犯しても恥じない者のこと。つまり、恥を知らないやつは禽獣、鳥やけだものと大して変わらないということです。

私も若い頃、修行道場にいたときに、嫌で嫌でたまらなく、逃げて帰りたいというようなこともありました。でも、父もかつて同じ道場で修業していたし、逃げてしまったら父の顔に泥を塗り、恥をかかすことになる。その気持ちが逃げずにやり遂げることにつながりました。

飲み過ぎて失敗してしまう人は、まずは恥を知りましょう。