デジタル円で賃金が振り込まれる日
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デジタル円で賃金が振り込まれる日

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新入社員を迎える季節だが、それを待つようにデジタルマネーで賃金を支払うサービス、いわゆる“賃金のデジタル払い”が2023年4月から解禁された。銀行口座を介さずに「資金移動業者」のスマートフォンの資金決済アプリに賃金を直接入金できるようにするもので、ATMなどで現金化もできるようになる。しかし、将来の“デジタル円”への移行も含め、まだまだ多くの課題を抱えているのが現状のようだ。

“賃金のデジタル払い”に企業が相次いで参入

賃金のデジタル払いは、キャッシュレス決済の普及や送金サービスの多様化が進むなかで実現。賃金の受取方法が増えるのは、1998年の証券総合口座以来25年ぶりとなり、まさに画期的な新機軸と言える。この解禁を受け、スマートフォンのQR決済アプリ最大手のPayPay(ペイペイ)が4月1日に厚生労働省に事業者指定を申請、同月3日にはKDDIの「auPAY」のほか、楽天グループの「楽天ペイ」、NTTドコモの「d払い」、リクルートホールディングスの「Airペイ」といった各決済サービス運営会社も相次ぎ参入した。

賃金のデジタル払いを利用すれば、消費者は決済アプリを利用する前の入金の手間を省けるほか、曜日や時間によって必要な銀行口座からの出金手数料が不要になる。企業にとっても賃金振り込みの手数料がかからないことやキャッシュレス化の推進をアピールできるなどのメリットがある。

企業などの雇用主は、労働基準法によって賃金を現金で支払うことを原則として定められているが、例外として厚生労働省令で、銀行振り込みなども認められている。今回の賃金のデジタル払いは、この例外規定に資金移動業者のアカウントも加え、デジタルマネーでの支払いを可能にするものだ。ちなみに、アメリカではすでに「ペイロールカード」と呼ばれるプリペイドカードに賃金を振り込む仕組みがあり、2022年で推計約840万枚が利用されている。

日本でも同様の仕組みを導入することで、キャッシュレス決済拡大の起爆剤として期待されている。実際に賃金のデジタル払いが始まるのは、資金移動業者が厚生労働省の認可を得て、かつ、利用する会社内で労使間の決定がされた後となり、数か月先となる見通しだ。

銀行界はデジタル払いに抵抗の姿勢だが

この賃金のデジタル払いを積極的に推進してきたのが厚生労働省だ。労働政策審議会の分科会で議論を進め、比較的短期間に制度設計を煮詰めた。

一方、この賃金のデジタル払いに危機感を強めてきたのが銀行界だ。「社会に定着している賃金振り込みの牙城をノンバンク(資金移動業者)に崩されかねない」(地銀幹部)ためだ。銀行は賃金振り込みで顧客の資金の流れを把握し、いろいろな商品の提案をするのが競争力の源泉だが、資金移動業者に賃金のデジタル払いが握られれば、そうした情報の優位性は失われる。また、振込手数料の引き下げ圧力が高まることは確実で、収益低下要因になりかねない。

こうした危機意識から銀行界は審議会で議論が始まると、「デジタルマネーの事業者が経営破綻した場合に、賃金等の支払いが滞る恐れがある」「マネーロンダリングに悪用される懸念も残る」など、数々の問題点を指摘。労働界も問題点を不安視したことで、一時は導入自体が危ぶまれたが、結局、政府のデジタル化推進方針に逆らうことはできなかった。しかし、導入やむなしとなると、今度は制度をがんじがらめにする方向に戦略転換。

その結果、銀行界からの問題指摘を踏まえ、サービスを提供する資金移動業者は金融庁に登録した上で、厚労相の指定を受けることを義務付けられた。さらに、指定を受ける資金移動業者は、資本金や自己資本比率など銀行と同程度の財務要件が課されることとなった。ほかにも、新たに口座残高上限額を100万円以下に設定している資金移動業者に限定すること、破たん時に口座残高全額をすみやかに労働者に保証すること、月1回は手数料なくATMなどで換金できることなどの要件が加わった。

国内の資金移動業者は2022年10月時点で85社を数えるが、これら労働者の保護を目的とした制度面の制約やコスト増もあり、4月にサービススタートしても参入する資金移動業者は少数にとどまる見込みだ。

また、デジタルマネーで支払われる賃金は、犯罪者にとっては格好の標的となる可能性もある。2020年に発生したドコモ口座を介した銀行預金の不正流出問題に類似した、システムの抜け穴を突くような犯罪が起こる可能性も捨てきれないだろう。「スマホのウォレットから、知らないうちに賃金が引き出されていた」といった事態にならないことを祈るばかりだ。

だが、大手決済アプリ各社のデジタル賃金事業への意欲は強い。各社がデジタルマネー(ポイント)で動画や電子商取引(EC)など各種サービスを利用できる「経済圏」を競っているためだ。賃金受取先に選ばれた決済アプリ事業者は、選んだ消費者を自社の経済圏の各種サービスの顧客として囲い込めるメリットがある。

賃金のデジタル払いは、コスト面もあり、静かなスタートになると見られるが、その将来性は画期的な世界を予感させる。その鍵を握るのは、日本銀行が検討を進めている「デジタル円」とのリンケージだ。

国も取り組む「円」のデジタル化

日銀の黒田東彦前総裁は2023年3月28日、東京都内で講演し、法定通貨「デジタル円」について「今後実現していかなければならないし、実現していく」との考えを示した。さらに、黒田氏は「いつからどのように提供するかには、いくつもの選択肢があり得る」とした上で、「いかなる対応もできるようあらかじめ準備しておくことは、中央銀行の責務だ」と述べた。

日銀は2021年4月から基本的な制度設計などを検証する内部の実験に取り組んでいる。4月にも日銀は民間金融機関と協力して本格的な実証実験を始める予定で、検証結果を踏まえて2026年までにデジタル円発行の是非を判断するとしている。だが、中央銀行が発行するデジタル通貨は、既存の法定通貨とどう共存するのかなど未知数の部分は多い。

中央銀行によるデジタル通貨の研究は世界の潮流になっているが、日銀の対応は後手に回った感は否めない。「FRB(米連邦準備制度理事会)は当初、デジタル通貨に対して慎重な姿勢であった。このため日銀もデジタル通貨については距離を置いてきた」(メガバンク幹部)という経緯がある。アメリカドルは世界の基軸通貨だが、デジタル通貨はその地位を脅かしかねないリスクがあるとアメリカ政府は懸念したためだ。同盟国の日本もこれに同調した。

実際にアメリカの懸念は時を置かず現実化した。中国が2022年の北京五輪でデジタル人民元による決済を導入、世界の先陣を切る構えを見せたのだ。また、欧州も2026年にもデジタルユーロを発行する方向で準備を急いでいる。FRBそして日銀は、これから本格化するであろう中国、欧州とのデジタル通貨をめぐる覇権争いに打って出ざるを得なくなっている。

一瞬で資金が移動する足の速さが逆に懸念に

4月からの実証実験では、民間金融機関やフィンテック企業などのIT事業者なども参加する。「実験に参加した銀行の口座で実際にデジタル通貨がやりとりできるか、本人確認などのセキュリティ面も含め検証される」(メガバンク幹部)という。また、日銀が実験用システムを構築し、エンドツーエンドでの処理フローの確認や、外部システムとの接続に向けた課題対応の検討などが行われる予定だ。具体的には、小売店などリテール決済に係る民間事業者などが参加する「リテール型デジタル円」の検証を行うほか、クロスボーダー(国際)送金への活用などを視野に入れた「ホールセール型デジタル円」の検証を行う計画だ。

だが、課題は山積している。特に、現状の物理的に存在する通貨に対し、デジタル通貨は、一瞬で資金が移動する。足が速いために銀行が危機に瀕した場合、対応が追いつかないリスクが高い。

折しもアメリカのシリコンバレー銀行の経営破綻では、ネットを介した信用不安の伝搬と資金流出が命取りになった。法定通貨がデジタル化した場合の危機対応は難題だ。日銀のデジタル円発行は研究のための実験で終わるのか、実際に発行にこぎ着けられるのか、実証実験は試金石となる。

クレディ・スイスショックの後遺症 世界的な金融システム不安に日銀の出口は遠のく

2023.3.28

民間のデジタル賃金利用意向調査によると、利用に前向きな消費者は30%程度にとどまる。スマホを使い慣れた若年層でも利用に否定的な人がほぼ半数を占める。しかし、同時並行的に検討が進められている「デジタル円」が日の目を見ることになればその環境は一変しよう。法定通貨となったデジタル円で賃金が支払われる日も来るかもしれない。鍵は日銀が握っている。