竹村健一先生を悼む
2019.07.13
その他
0コメント評論家の竹村健一氏が亡くなった。ここ数年はお会いしていなかったが、訃報に接してお悔やみを申し上げたい。
竹村先生とお会いしたのは今から約20年程前。元東急エージェンシー社長の前野徹氏(故人)にご紹介頂いた。当時、経済誌の編集局長に急に抜擢され、大幅に誌面変更する中で、新しい連載を受け持ってもらうことになったのだ。
先生は少し気難しく、最初はとっつきにくいと感じた。僕もよく同じことを言わるが、、それと、他の編集者にまとめさせると、なぜか気に入らないようで、先生の原稿だけはテープ起こしから、まとめまで僕が受け持った。そのうちに、多忙でご自身が推敲できないときには、僕がまとめたものをそのまま載せても構わない、という信頼まで頂いた。
気難しいというのは印象であって、多少の不愛想ささえ理解したら、優しく温かい人だった。
二週間に一度出かけ、話を聞いてそれをまとめるということを10年ほど続けただろうか。
事務所の応接の長椅子には、乱雑に本が積み上がり、その上に座ることもあるし、疲れると寝転がりながら取材をする、という事もあった。それほど信頼してもらっていたという事だろう。
僕と出会うずっと前、竹村先生がテレビで売れてきた時に、政治家がテレビで語ることはまだ珍しかった。政治家がテレビに出るなんて、と思われていた時代だったのだ。今では沢山の討論番組に政治家が出て来ているが、そのきっかけは竹村先生が引っ張り出したことからである。
総理になる前の中曽根康弘氏に、ランプのついているカメラに向かって、語りかけるように話すこと、と説き、それが国民に語り掛けるように思われるとした。それから、政治家が積極的にテレビを使い政策を訴えるようになった。先生はメディア論の大家・マーシャル・マクルーハンの理論を日本に紹介し、その理論が根底にある。そして、テレビがメディアの中心になると予見していたのだ。ネットが主流になってきた(トランプ大統領もツイッターの伝達手段が主だ)今は、テレビもその中心から外れてきているように思えるが。
僕が独立をしたときに帝国ホテルの嘉門でランチをご馳走になった時のことが昨日のようだ。
4年前に政経電論の戦後70年の特集号で取材をしたのが最後になってしまった。
»「アメリカは敵ではなく憧れの国 」疎開を経て戦後ジャーナリズムを追求・竹村健一(85歳)
合掌